登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2002年6月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.80


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



5月例会

 1.Hさんの場合

 2.Kさんの場合

 3.Mさん夫婦の場合

 4.Iさんの場合

 5.Aさんの場合



Hさんの場合


Hさん:今、18歳の次男と暮らしています。
次男は幼稚園の時から1週間に何日か休んで、入学してからも毎年1ヶ月以上休む子のリストに名前があがっていました。



 腹痛や発熱を6年間繰り返して、「中学なったら学校に行くからね」と言っていましたが、1学期は行っても、2学期から小学校と同じで行き渋りが始まり、行けなくなりました。



 私が親の会に参加するようになったのは、5年前の中学2年の6月でした。
そのときは何とか学校へ行かせようと思いはりきってきましたが、ここで「親が変わる」と言われて、1,2ヶ月はそんなことができるのかと思いました。
そのころ息子は家で静かに過ごしていましたが、私は学校へ行きなさいと叩いたりしていました。



 幼稚園から夜尿がひどくて、のちに「学校に行かなくていいよ」と言いましたら、息子は「お母さん、学校辞めていいの」と喜んで、そのときから夜尿が止まりました。
心配事や不満が体に出ていたんですね。



 夜尿が止まったと同時に、私に対する不満がバッーと出てきて、私を小突いたり、かわいがっていた妹をつねったりするようになり、それがだんだんエスカレートして短期間に家庭内暴力へ発展しました。



 息子は物を投げたりしてひどく荒れ、家族もばらばらで夫とは話し合いが全然できず家庭崩壊の状態となり、私は離婚しました。



 私が子どもをひきとり、4人(私と子ども3人)の生活が始まり再出発しましたが、家庭内暴力がものすごくて、私は半年あざが絶えませんでした。
息子は家庭内暴力をやめたと同時に今度は非行に走り、もうずっと家に帰らない日が続きました。



 その頃の私は自分で育てる自信がなく、警察へ捜索願いを出したり、地域の民生委員に頼んだりして、息子を施設に預けようとしました。
 その頃は親の会へ行く気がなくて。
行っても「そんなところに預けたらだめよ」と言われると思っていましたから。(笑い)



―――「少年院へ預けたら、あそこは勉強も教えてくれる」と言ったことがありましたよね。



 はい、そういう情報が学校側やいろんなところから入ってきてしまって、気がゆるんだ隙に、息子を児童相談所に預けて、その場で少年鑑別所送りになってしまいました。



 それからがとても大変でした。
 それから親の会へ真剣に参加するようになりました。
もつれた糸をほぐすようにやってきているのですが、最初は息子には全く取り合ってもらえない状態でした。



 息子は居場所を求めて外へ出ていきました。
 学校側は非行少年との付き合いをやめなさいと言い、私もそうなのかと思いましたが、内沢さんや名古屋の多田弁護士(注:夏合宿講師)に相談していくなかで、息子は「今居場所を求めているから、今は止めたらいけない」と助言され、とても心が痛かったんですが、祈りながらずっと見守って来ました。



 今、下の娘も帰って来たくないと言うもので実家に預けています。
 長男もこの4月から大学で、次男と二人の生活です。
 今は少しずつ語ったり、笑ってくれるようになりました。



 この間は「世の中つまらないなあ」と言いましたので、「今からでもやりたいと思うことがあったら、したらいいよ」と言うと、「もう、今からは遅い」と言いました。



 「でも自分がしたかったら遅いことはないいんだよ」、「あなたは、すばらしいんだよ」と言うと、「親ばかなんじゃないの、かいかぶりなんじゃない」と言いました。
こんな会話が出来るようになって良かったなと思いました。



 そんな形で少しずつ親子関係を取り戻しつつあるんですが、気になることは保護観察中の為、保護司に会わなければならないのですが、息子が会いたくなくて呼び出しに応じようとしないことです。



 応じないと再呼び出しとなり引致されるかもしれないと書面に書いてありました。
私は脅しだと思ったんですが。息子がしたことはナンバープレートを外したことなんですが、連れていかれる位の大変なことなんでしょうか。



 私は内沢さんに言われたように、息子を守る為に強くならないといけないと自分に言い聞かせています。
今月末が呼び出しの日ですから、息子が行かないときは私が行こうと思っていますが、私もキチンと言えるかどうか今不安です。



―――内沢達:初めて聞かれた方もいらっしゃるので、息子さんが鑑別所にまで入ったとなると、よほどの非行かと思われるかもしれませんが、まったくたいしたものではありませんでした。



 息子さんは中3でしたが、友達と遊んでいてなかなか家に帰って来ないことがあっただけです。
警察が児童相談所を勧めたんです。



 お母さんは児童相談所だったらうまくやってくれるんじゃないかと同意しました。
ところが我々の税金でつくられている児童福祉のための児童相談所が全然教育的じゃなかったんです。



 息子さんはその時、自分が自分らしくありたいと思ったモヒカン刈りにしていました。
それを「その頭は何だ!」と言って、児童相談所でバリカンで刈られたんです。
それで彼は児童相談所で暴れたんです。
あたりまえです。



 息子さんが唯一といっていいほど、自分が自分らしくありたいと思っていた髪型が力づくで否定されたんですから。そして「何事か!」と鑑別所送りになったんです。



 少年を保護し、少年のためにあるべき、我々の税金でつくられている福祉機関が押さえつける側になっている。
 お母さん自身も大変だったということがあるんですが、いろんな専門機関は普通頼りになると思ってしまいますが、全く頼りにならなかったどころか、正反対だったわけです。



 お母さんのほうの問題としては、息子さんは学校に行くのがずっと辛かったわけですが、お母さんがすぐ学校に行かないということを認めて上げられなかったということがひとつありますね。



 二つ目に、お母さんはもうそのことは言わないようになったんですけども、中学校卒業後、学校へ行かなかったら今度はちゃんと働きなさいと対応したことがあります。
彼自身も働かなければいけないと思うようになりました。
15、16歳なのに朝早くから夜遅くまですごい重労働で働きました。



 ついつい、お母さんも「早く起きなさい」とか、お弁当を作ってやったり、いろんなことをしてあげました。
 そこがまた学校と仕事が同じだったんです。
 学校に行かなくなったら、仕事でがんばれとね。


 
 我々はまだ子どもたちに養ってもらわないといけないほどに、経済的に大変だということはないですよね。でも子どもさん自身もそんなふうに思ってしまうんですね。
学校に行かなかったらせめて今度は仕事でがんばらないと、ここにまた無理があります。



 その点でもお母さんはだんだん受け入れるようになってきて、そんなに無理しなくていいんだよと、学校行かなくたって、仕事しなくても、あなたはあなたのままでいいんだからというふうにですね。



 ところで、彼は家庭裁判所で保護観察処分を受けました。
 処分後をみていく保護観察所というところがこれまたひどいところなんです。
児童相談所は県の施設なんですが、保護観察所は国の機関で、「ちゃんと働かないとだめだ」と言うんです。



 これは昔のすごい罪を犯した成人が、更生してきていることが認められるための条件として、「ちゃんとした生業に就いていること」という項目があるんですよね。



法律でも何でもなく、ただの指導基準ですけど、それを機械的に適応して、戦後まもない時期に中卒後半分くらいは働いていた時代というんだったらまだしも、「学校に行かなかったら、働け」、「働いているかどうかが保護観察処分を解除する条件になる」なんてひどいことを言うものですから、僕も一緒に同行したんです。



 だから、児童相談所も本当に子どもの福祉の立場に立っていませんし、国の保護観察所も少年の更生のために、必ずしも動いてないんですね。



 息子さんは先ず、学校に行かない自分はだめじゃないかと。次に、働かない自分はだめじゃないかと。
だから学校に行かないことであれ、深夜徘徊であれ、お母さんがおっしゃったように次に非行という形で自分の辛さを表すようになったんですね。



 ひとり一人の子どもの表し方が違うだけです。
他に閉じこもりであったり、家庭内暴力であったり、形が違うだけであって、決して特殊なお話だとお考えにならないでいただきたい。
今のお母さんの例からも、いろんなことを学んでいけることが多いんじゃないかと思います。



 



Kさんの場合



Kさん(父):今、中3の息子です。もう学校は辞めているような状態です。行っていないというより辞めたという方が正しい表現だと思うのですが。



 今は比較的穏やかに過ごしています。
皆さんと同じで、3年になるとき気持ちが不安なときがあり、始業式の前日に目がおかしくて、だいたい顔を見ていると分かるんです。



 ちょっと不安そうだなと思い、ちょっと一声掛けないといかんなと、だいたい手を握りながら話すんです。
「今のままでいいんだよ」と言うと、「分かっているよ」と言われ、あとGW明けにちょっと不安定かなと思い、また手に触れて「今のままでいいんだよ」と言うと、「分かってるよ」と言われて(笑い)、という感じです。



 最近は、本を読もうという感じなんです。今まで漫画とゲームぐらいしか見てなかったんですが、ドラクエの本で活字があるものを、家の中でどこでも片手に持ち歩いています。



―――お父さん自身、息子さんが不登校になってこのままではまずいなあ、親の会に行けば学校に行かない話ばっかりで、「ここの親の会に来ると、自分が悪い方向に染まってしまう」というお気持ちはなかったですか?



 一番最初は、ちょっとここはやばいやあという感じでした(笑い)。
ここらで何とか切り抜けることは出来ないかと(笑い)、これが楽しくなるとやばいかなと思ったことがありました。



 ただうちも長男が高校で、次男が不登校で、下の娘は小学校で行っています。
そんな状況で、最初参加した時に内沢さんの言葉に助けられたことがありました。



 「人と人の関係は、その人とつないでその世界が生まれるんだ」という表現をされたと思います。
例えば、僕と長男、僕と次男、僕と娘と会うなかで一つの世界が必ずあるんだなと、その中で共通なものは何かなというと、学校へ行く、行かないということではなく、「自分の子どもであって、その子どもを僕は好きなんだな」と、そこを基本に考えると気持ちが楽になっていることが分かりました。



―――学校に行っている息子さんじゃなくて、我が子自身が好きなんだなということですね。行っているか、いないかで愛情は変わらないと。



 そうです。
それが我が子へ共通しているところです。
内沢さんのその言葉を聞くまでは苦しかったです。



 そのときは家で学校の「が」もしゃべれない禁句のような緊張感が続いていていましたから。
まだ子どもへの気づかいもありますが、その点は少し楽になってきたかなと思います。



 親の会はまだ初心者マークですから。
ただ、今の話とか、合宿のことなど次男に話し掛けるのは勇気が要ります。
タイミングをみて言わないと、傷つけてしまうのではないかという遠慮が僕自身あります。
一応合宿があるよと言っているんですが、全然興味を示さないので、見えるところに置いています。



―――お父さんは将来息子さんを学校にやらないと、というお気持ちはないのですか? (はい) 早いですね。



 完璧ではないですよ(笑い)。
今は学校へ行くということは考えていませんね。
(何故?)何故って、一生子どもと一緒に生きていこうかなと思っているのがひとつですね。
ずっと一緒にいて将来面倒みてもらおうかなというのもあるんですが(笑い)。
金銭的にも何とかやっていますし。



―――息子さんは外に出て遊びますか?



 ずっと家の中にいて、出ないです。
月1回の家族でいくキャンプのときだけ外に出ます。
学校も無縁ですし、友達も一人もいません。



―――ずいぶん早く、親御さんが息子さんの存在をそのままでいいんだと、受け入れられるようになったのはどうしてですか? 
最初お母さんが一人でいらして、うちの子も学校に行かなくなったらどうしようと思われましたよね?



Kさん(母):ここに来ている間も元気になったら、学校に行くだろうなと思っていました。
友達付き合いもして、部活動ぐらいはしてほしいなと思っていました。
今はもうそんな気持ちはないんですが。



お父さん:ここへ来る前は、息子は学校に行かないからクラブ活動だけ行くとか、土、日は友達に来てもらって遊びに行ったりしていて、私たちはそれが子どものためだと思っていました。



 クラブだけ行って、授業にはひとつも行かないで、学校が終わると無理やり友達に頼んで、家に来てもらってゲームをしていました。
 一人では寂しいだろうと思った妻が、友達のお母さんに頼んで、土、日も遊んでもらっていました。



 それが苦痛だと分かったのが1年前で、自分で言い出しましたから。
「友達にも会いたくない」「学校の先生にも誰にも会いたくない」その頃が一番荒れていました。



 少しずつ落ち着いてはいるんですが、この会に数々の先輩がいらっしゃいますから、だいたいの起こるべきことは頭に入れて(笑い)、このくらいは起こるんだなと予想できるんです(笑い)。
それが一番ためになることですね。



お母さん:私は内沢達さんが金属パイプで実験された、あの時からすごく吹っ切れました。
「物事は法則的だ」というあのときの話が基本になって、息子に対して自然になれます。
友達に会いたくないのも、外に一歩も出られないのも当たり前だと思え、だから自然に学校に行かないのも当たり前だと思えるようになりました。



―――やっぱり親御さんが安心するようになれば、家族は幸せになるということなんですね。親がいつまでも不安だと、家族はバラバラになっていくんですね。



―――内沢達:先ほどの子どもさんも、ここにいる我々も、そして誰であれ、皆さん、この世にただ一人しかいない個性的な存在です。
 他の何者でもない個性そのものです。
 と同じに、どの子どもも、そして僕ら大人も、皆、同じ人間だということです。



 人間だったら法則的だということをわかっていただくための実験を以前しました。
 うちの子だけが特殊だというふうにはならないということです。
 だから個性ということと、同じ人間で共通なんだよということ、何にも特殊じゃないんだよという両方の面から考えて行きましょう。



 やっぱり霧島でもパイプはやりましょう!(笑い)。
(注:「パイプの実験」とはアルミパイプをこすってやると音が出るのですが、中が空いていない、つまっている棒だったら音がでるでしょうか。平べったいアルミだったらどうでしょう……など、いろいろ実験してみます。全国合宿の時お楽しみに!)



 



Mさんの場合



Mさん(母):19歳の長男と17歳の長女が不登校です。
 6月2日で不登校3年になる娘が「3周年」のお祝いのパーティをやってくれと言っています(笑い)。



 娘は中3から不登校になり、その頃は何も不安はなかったみたいでしたが、お友達が高2となった今は不安があるらしく、もう少しゆっくり時間が過ぎていったらいいのにと言っています。



 「お兄ちゃんが17歳のころすぐ不安になったとき、花のセブンティーンなのにと笑ったけど、今思えば悪かったな」と言いました。
 娘は自分はそう悩んでいないということをアピールしてきました。
 私たち夫婦と長男がいつもどたばたやってきましたから、娘はいつも傍観者的に眺めている面もあったようです。



 「いつも3人で相談していたしね」と皮肉っぽく言われたりします。
息子は自分の思いをぶつけてくるので分かりやすいのですが、娘は自分の心の内を見せないので、今は息子より娘の方が少し心配です。



 この前親の会のホームページが出来た頃、私のバースデイでしたので、早速書き込みましたら、たくさんの親の会の皆さんから「おめでとう」と言われて、本当に嬉しかったです。
 私もいろんな会へ顔を出して、それなりにがんばったときもありましたが、この親の会がその中で1番自分らしく過ごせて、自分の居場所はここだなあとつくづく思って、今はとても幸せです。



 娘にそのことを話したら娘も「お母さん、私も幸せだ」と言ってくれました。
 娘の学校でいろんなことがあり、きっと辛い時期もあったと思いますが、子どもたちが不登校をしてくれたお陰で、今の親の会の人たちと知りあいになれて、本当に良かったし、幸せだと思いますので、今のままでいいと思っています。



 息子も19歳になったときは、少し心配しましたが、何事もなく穏やかです。
昨年の18歳のバースデイのころは、息子が荒れていて、その1週間後が私のバースデイでしたが、夫は徳之島にいたし、娘と二人でしんとして食事をしただけでした。



 私の母から「おめでとう」という電話が掛かって来ただけでした(笑い)。
 今年ももちろん母から「おめでとう」の電話がありましたが、夫や息子、娘から祝福されて、本当に幸せなバースデイでした。



―――お父さんに「あなたはどうしてそんなに変わったのですか?」という質問がよせられたのでしょう?



Mさん(父):はい。奈良県の方から聞かれました。
結局僕は徳之島に5年間単身赴任していて、今鹿屋に単身赴任2年目ですよね。



 徳之島にいるときは離れていたので,見て見ぬふりをしていたらよかったんです。
 鹿屋にいる今は毎週末、自宅に帰るのですが、長男が荒れて大変なときには、妻へ家庭内暴力をふるったりもありましたので、もう見て見ぬふりは出来なくなり、そのことで私も追い込まれていって、関わらざるをえなくなり、変わっていけたように思います。



 徳之島にいるときは、5年間で親の会に出席したのが5回くらいでした。
 鹿屋に転勤してからは、毎月親の会に参加し、今日で連続14回目の参加です。
 自分が確かに変わったのかも知れませんが、子どもと同じ立場で物事が考えられるようになったのだと思います。そこが違ってきたのだと思います。



―――お父さんが一番辛かったのはいつでしたか?



 息子に「あんたがあのときこうだった、ああだった」と言われ責められたときでしたね。
息子に責められると、「ああ、自分がそうだったから、こうなったのか」と自分を責め、否定していったわけです。



 そのとき内沢さんのところへ相談に行って、「あなたも電池切れの状態なんだから、ゆっくりしたらいいんじゃない」と言われ、「ああそうなのか」と思って、自分が軽くなって・・、それからですよね。



 息子は妻だけへの暴力ではなく、父親の私へも暴力を振るいました。息子はだんだん私を受け入れてくれたんだと思います。


 
 実は、今までは子どもたちと妻が会話している中に入ろうとすると、「お父さんに話しているんじゃない。お母さんと話してるんだ」と拒否されていましたが、このごろは息子の方から私へ話し掛けてきます。



 私が変わったというより、息子が「まあ、この辺でお父さんも許してやろうか」と思っているのかもしれませんね。非常に今はそれが幸せです。



―――以前、鹿屋から毎週自宅へ帰るのが非常に辛いときがありましたが、今はどうですか?



 ありましたね。
今は家に帰るのは苦痛ではありません。
子どもたちの笑顔を見ると嬉しいです。
妻や子どもたちが、私をまた家族の中に戻してくれたんだなあと思い、妻に感謝しています。(笑い)



―――まだ自分から息子さんへ話し掛けていくのは大変なんでしょう?



 はい、でもこのごろやりだしました。少し顔が引きつったりはしますが。



お母さん:日帰りでも宿泊でも出かけるときは、私が息子に言うのですが、今回の夫の姉の病気見舞いに長崎へ行くのを、夫が言いました。
 1日前から夫はすごく緊張して、内沢さんに電話してから言おうかなと迷っていて(笑い)、食事のとき突然「君達に話したいことがある」と言って、皆びっくりして(笑い)。



 考えて、考えて話してみたら、息子は何ということもなく、ただ「1泊なんでしょう」でしたね。(大笑い)
 そういうことの積み重ねがいろいろあって、私たちが留守の時は息子がご飯を炊いて、洗濯物も取り入れて、片付けもちゃんとやってくれたらしく、娘から夜電話があったときには「お兄ちゃんがすごくやさしくて気味が悪かった」と言っていました。(笑い)



―――1年くらい息子さんと娘さんは口もきかなくて、4人がバラバラのときがありましたね。



 娘が先月の通信を読んでいて、「引越しとか、病気見舞いではなく、何の理由もなく、二人で宿泊出来たら、花丸をあげます」と言ってくれました(笑い)。



 それから、私たちが留守の間、子どもたちは二人で共同してやれたねという感じがしています。
そういうことを一つひとつやっていくことが、普通にきちんきちんとやっていくことが、私たち親の自信と家族の幸せにつながるのかなと思っています。



―――学校に行っていないからといって、特別扱いしたり、気を使ったりしないということですね。(はい)



お父さん:息子は傍目から見たら、ずいぶん落ち着いてきたように思われますが、まだまだ不安を抱えていて、それを出してきます。
それで親がガタガタしても仕方がないので、「もっとゆっくりしなさい」とよい機会を捉えて、息子へ言おうと思っています。



 それと、今までなかったことですが、今日は子どもたちが二人揃って私たちを玄関まで見送ってくれました(拍手)。
親の会へ行くのに、こんなに楽な気持ちで来れたのは今度が初めてでした。



お母さん:いつも娘は玄関まで見送ってくれます。
息子は親の会に行くのは喜ぶのですが、玄関までわざわざ見送ることは今までありませんでした。
ふたり揃って見送ってくれて、本当に今日は嬉しかったです。
息子は視力が低下し、めがねを買いに行きたいけれど、外出できないという不安を抱えています。



―――目がかすむとか、目が見えなくなるのではないかと、息子さんは不安を眼に表しているのですね。
Mさんの場合だけでなく、親の不安が消えたとき子どもが楽になっていますね。
それが大切な教訓です。



 お父さんは今、にこにこしていますが、以前この会にいらしたときに、「この世の中は学歴社会なんです」(笑い)。
「親が変わるなんて僕には出来ません」とおっしゃっていましたね。
その当時はご夫婦の関係も本当に大変で、お二人の辛そうなお顔は今でも忘れられません。




お母さん:あのときは本当に辛い日々でした。
娘が「お兄ちゃんはお母さんでないとだめだから、私がお父さんの所に行く」と言いました。
娘はお父さんのことがもし嫌いだったら、行くとは言わないだろうから、お父さんのことが好きなんだなと思いました。



―――お父さんはお母さんに感謝しているよね(はい、頭があがりません)(笑い)。
HPの書き込みを読んだら、長崎の爆心地を二人で1時間半歩いたんですってね。
お母さんが腕を組もうと言ったら、嫌だと断ったんですってね(笑い)。


お父さん:はい、恥ずかしいじゃないですか。
そりゃ、若いころは妻と腕を組みましたけどね(笑い)。


 



Iさんの場合



Iさん:私のいとこの紹介で、この会がどんなところかと思って鹿屋から初めて参加しました。
 下の娘が中1の3学期から学校へ行ったり、行かなかったりの毎日でした。



 親友からのいじめがあったことがわかったので、2年へ進級の際はクラス替えをしてもらいました。
 1ヶ月半くらいは何とか行ったのですが、5月の半ば頃からまた行ったり、行かなかったりになりました。



 私は2年になればまた学校へ行ってくれると信じていたのでショックでした。
「なんで学校へ行かないの? 何か理由があるはずだから、お母さんに話してごらん」とうるさく聞いたりしましたが、娘は何も答えてくれず、親として悲しかったです。



 しかし親の私にも言えないということは、私が子どもに話す機会を与えてこなかったのかと、今度は私の育て方が悪かったのかと私自身を責めました。



 私はクリスチャンで、牧師さんに相談にも行きました。
牧師さんも子どもさんが不登校になって閉じこもったそうです。
牧師さんから「とにかく本人が学校へ行くと言うまで待ちなさい。それまで見守ってあげなさい」と助言してもらい、私も落ちついてきました。



 夫も、傷ついているのだからそんなにあせらなくてもいい、2、3年ゆっくりしたって、あとで振りかえってみたらこの子にプラスになっているかもしれない、ゆっくり休ませたらいい、という考えでしたので、私も少し救われました。



 娘には「学校へ行かなくてもいい」と言いましたが、本心では学校へ行ってほしかったので、娘は私の気持ちを直感的に見抜き、落ちつきません。今、娘はお腹が痛いと言います。



 娘は普通に言う「いい子」で、周りにとても気を使う子どもでした。いい子になってほしいという母親の願いを受けて自分を出せずに気ばかり使ってきたのかもしれません。私は娘に自分らしく生きてほしいと思ってきたのに…。



 私は夫の両親と4人で農業をしているのですが、私が自分を閉じ込めて、周りに気を使ってやってきた姿が娘に表れているのかなあとも思ってしまい、これからは私もなるべく自分らしく生きていきたいと、娘の不登校を通して考えさせられました。



 娘は「学校では自分を出せない」と言いました。私は「いやならいやとはっきり言ったらいいじゃないの」と言うと、「それができないから辛いのよ」、「どうやったらできるの?」と言っています。娘ははっきり言えない自分自身にも嫌気がさしているのかもしれません。



―――今、娘さんは学校を休んでいるんですか?(はい)
 さっきお母さんはとてもいいことをおっしゃいましたね。「これからは周りの人達にばかり気を使わずに、自分らしく生きていきたい」と。(はい)



 お母さんご自身も今まで姑さん達や周りに気を使いながら、今まで自分を出せずに苦しんできた場面もあったわけでしょう。 (はい)



 娘さんが学校でいじめにあい、友達関係で悩んだ時、「どういうふうに友達に言おうか?」と娘さんは立ちすくんでしまったのです。ですから、「他人にばかり気を使う娘の性格は私の性格をうつしている」とお母さんが考える必要はありませんよ。



 誰だってそんな環境の中にいたら自分の思いを伝えることは難しいんです。
お母さんにだって、そんな体験がおありになるわけでしょう。「自分の思いを伝えるのはとっても難しい」という。 (はい)



 人格を否定されるいじめに娘さんはあったのです。
いじめというのは自殺するほど、命を失うほどの深刻なものなんです。
村方美智子さんに夏合宿でもお話していただきますけどね。



 いじめで人格を否定されてきたら言えないのは当然でしょう。
 娘さんがお母さんが言わないのは、大好きなお母さんには心配をかけたくないと思うからです。
 お父さんがおっしゃったように2年でも3年でもゆっくりさせてください。2年か3年経つともっと休ませなければいけないということがわかってきますから。(笑い)



 今日は会の様子を見にいらっしゃったそうですが、どうぞ毎月例会へ参加してください。
娘さんがどうして言わないのか、どうして周りに気を使うようになったのか、お母さん自身が「そのままで大丈夫だよ」と分かられたらきっと娘さんも安心なさいます。皆さんのお話を聞いていかがでしたか?




 娘の状態については安心したんですけど、娘は私に対して反発します。
私も娘と同じレベルでケンカをしてしまいます。
そういうのはどんなんでしょうか?
 思ったことをそのままストレートに伝えるのはいけないんでしょうか?



―――内沢達:いい質問ですね。
娘さんからひどい言葉をあびせられるのですね。 (はい)



 それは大丈夫ですよ。
子どもからひどい言葉をあびせられたら、大人として、親としてだめなのではなく、反対に、じつはかなりいい線をいっていると思って間違いありません。
ひどい言葉をあびせられる親は、だめな人間では決してありません。



 私自身のことですが、今、23才の娘が親の会のホームページ作りをやってくれています。
その娘が小1の時、当時は30代半ば過ぎで少しはかっこうがよかった私に対して、なんと「くそじじい! 死ね!」と言ったんですよ(笑い)。



 小6の時は「このブタ、死ね!」ですよ(笑い)。 
そういうことを言われたら一瞬ムッときますが、じつは「しめた」なんです。
そういうことを言うのは心配ないんです。
親に対して安心している何よりの証しです。
親に遠慮があったら言える言葉ではありません。親に遠慮がないことはいいことです。



 もうひとつ、子どもさんと同じレベルでケンカしたのは正解です。
同じレベルで、しかも低いレベルでの言い合いはなにも問題がありません。
反対に、かっこつきですが、「高い」レベルからものを言うのはよくありません。



 例えば、「あなた、将来はどうするの。今、そんなことしていて大丈夫なの?」みたいな言葉はダメです。
 僕と同じように低いレベルでけんかするのはいいですよ。
 例えば食べ物を取り合うとか(笑い)、テレビのチャンネルを奪い合うとか。



 そうではなくて、冷静に「高い」レベルから対応されちゃうと、子どもは「ああ、自分はダメなのかなあ」と思ってしまいます。お母さんの対応は2つとも素晴らしいですよ。娘さんも素晴らしいです。



 関連して申し上げますと、今日、様子見に参加したとおっしゃったのは正直でよろしいですね。
なんかこの会は少しおかしい(?)と思ったんじゃないですか?(笑い)



 おいおいわかってこられると思いますが、僕らは「今、大変だけど、将来ふりかえってみたらあの時はあれでよかったんだなあ、となるようにしたい」という見方をしていません。
今、現在、学校へ行っていない娘さんが素晴らしい、今、現在、反発する息子さんが素晴らしいという考え方なのです。



 牧師さんのご助言もありがたいけど「待つ」ということも私達はしません。
「待つ」という考え方は、現在の子どもさんのありようを否定するということですね。
それがいい状態になるまでゆっくり待ちましょうという考え方をしている限り、ものごとを明るく捉えられません。



 僕らの会は今14年目に入っていますが、5年前の8周年の時、僕は「登校拒否を楽しく考える」というテーマで話をしました。
 その時、あわせて「登校拒否で我が家は幸せ」という題で会のメンバーが体験を発表しました。



 無理して、大変なことを「幸せ、楽しい」と言ったのではありません。
不登校、そのこと自体が楽しいことで、学校に行かないことを自然に認めることができるようになった家庭は幸せなんです。



 なおぶーさんは今失業中です。
失業して何が楽しいの?(笑い) 普通は失業したら深刻になるわけでしょうが、なおぶーさんの場合は違いました。



 僕らは登校拒否は子どもの問題ではないと考えています。
登校拒否について周りの理解がないと、学校に行けない自分を責めて、子ども達が辛い思いをしているのは当たり前と思っています。



 僕らが登校拒否を「明るい」と捉えるのは、昔の世代はどんなに辛いことがあっても歯を食いしばって我慢するのが「いい子」と思ってきました。
 そういう子がこれからの社会を担っていくと思っていたんです。
 しかし今の時代は違います。



 我慢しない子こそがこれからの世の中を担っていけるのです。
 登校拒否はおかしいと思う人の考え方のほうがおかしいのであって、子どもの問題ではなく、まさに大人の問題なんです。



 なおぶーさんの場合、ことの始まりは3人の子どもさんの不登校でしたが、そのことを通してなおぶーさん自身の生き方を考えるようになってきました。
 大人ももっとゆっくりと自分の人生を生きていっていいと考えるようになったのです。



 「学校が主人公」ではありません。
「世間や親戚や上司が主人公」ではありません。
 まわりに気をつかってばかりでは、自分の人生を生きているとはいえません。
子ども達は「いやなものはいや」と身体で、あるいは言葉に出して言ってくれるようになりました。
そのことをきっかけにして、親も大人も「自分が自分の人生の主人公として生きていこう」となってきたのです


 



Aさんの場合



Aさん:娘が学校に行かなくなった頃、私も娘の手を引いて、今日は学校の門まで、次の日は校舎の前まで、次の日は教室の前までと引っ張って連れて行きました。



 それを思い出すと胸が痛みますが、学校に行かなければこの子はだめになるとずっと思いつづけた時期は、どうしても私の育て方が悪かったんだと自分を責め、学校が悪いなんて絶対に考えませんでした。



 私がこの会に出会ったのはちょうど8周年記念の講演会の時でした。
内沢達さんが「たとえ親であっても子どもを変えることはできない。しかし、自分を変えることはできるんです」と言われたときに、ああそうか、学校に行きたくないという子どもを変えることはできないんだ、そうなんだと納得した時に無理して学校に行かなくてもいいんじゃないかと思えたんです。



それから5年経ちましたが、行かなくてよかったと今では思っています。
 息子は19才になって、「お母さん、僕は生きている価値があるんだろうか
生きている実感がない」と言います。



 そう言われると、このままでほんとにいいんだろうか、この子はひとりで生きていけるんだろうかと不安になることもあるんですが、そこにいてくれるだけでいいという思いがあるので、「今そこにいるだけでいいんだよ」と5年間かかりましたが今言えるようになった自分がいます。




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