登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 100号記念! 2004年4月発行ニュースより



体験談

100号記念!2004年4月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.100


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月2割から3割程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら→



 会報は心をつなぐかけはし(100号を記念して) 3月例会報告


 100号の会報をお届けできることを感謝します。
会報は皆様の体験が記録され、そのなかに貴重な教訓が宝石のようにちりばめられています。



 親の会が発足して15年、会報を発行して100号になりました。
 Uさんは、「参加できないとき、会報を読むと、あー、こんないい話がでたのね。参加できなくて残念と思うの。そして、参加できたときは、会報を読むとまたその時の感動がよみがえってきて」と言われます。
 会報は私たち会員をつなぐ心のかけはしとしてしっかり根付いています。



 3月の例会は、Yさんのお話をきっかけにして、多くのことを学びました。
 Kさんが、休むことの大切さと難しさを言われました。
 休むってむずかしい、休んでいてもなお自分を否定する、不安で動こうとしているのか、それとも十分なエネルギーをためて動こうとしているのか、その時こそ親の考え方が問われてきます。しかし、我がこととなると不安になってしまう…。



 初めて参加された3家族も交えて、親の希望が見え隠れした「正直」なお話、初参加で息子さんの高校退学を決めたお父さんのお話、どの体験にも貴重な教訓があります。
 我が子を信じて、こうして交流していけばすてきな人生を送れるのさ…、だからこそ、親の会の存在が大事なんですね。



 100号に寄せて、呼びかけ人の長谷川登喜子さん、世話人の5人のメッセージを掲載させていただきました。






1.休んでも心がしんどかったんですね。 Kさんの体験

2.皆さまのおかげで100号をお届けできることに感謝します!




休んでも心がしんどかったんですね。 Kさんの体験


―――内沢朋子(世話人):先月号の会報にKさんが送ってくださった携帯メールをご本人の了解を得て掲載させてもらいました。その文章の中に大切なことが書いてありました。 



 Kさんは中学の頃から万引きをするなどして、何度も警察に補導されていたんですね。
 お母さんは私の子どもじゃない、煮るなと焼くなとしてくれと言って迎えに来てくれなかったんです。
 Kさんは自分を粗末に扱って、これでもか、これでもかとお母さんをためしていったんですね。
 これは最大の自己否定ですよね。 



(メールを読み上げる)
メールの内容はこちらで見れます。(下の方)→


 
仕事を何度も替えて大阪でご結婚なさったときは、お舅さんとうまくいかなくて、手を洗っていても水の音が電話の音に聞こえて、とても怖くなってストレスを抱え、舅に繋がっている夫のSさんの顔を見ると頭が無性に痒くなって、日に何度も洗ったと言います。Sさんはご自身のご両親と絶縁し、福岡に転勤されたんですね。



 「休む」ということは非常に大事なことなんだけれど、「休むってことはとても難しい」ということに気づかれたんですね。
 これはすごく大事なことだと思うんですよ。子どもにゆっくり休んでいいよと言っても、子ども自身が自分で休むことを許す、本当に心からゆっくり休むってことがどんなに難しいかということを、Kさんのメールから学ぶことが出来たんですね。



 Kさんは中学生の頃からずっと自己否定しながら来たけれど、素敵な夫と巡り会えて、息子のS君と愛犬のダスちゃんと巡り会えて今とても幸せなんですね。




Kさん
:中学で悪くなる前までは、口応えもしないすごくいい子でいましたが、中学ではじけてしまったら止めることが出来なくて、どんどん落ちて行ってしまって、そのときは命の大切さや休むことの大切さ、自己否定することについて何もわかってなくて、もうどうでもいいやと思って、どんどん悪いほうに行ってしまいました。



 立ち直るのにもすごく時間がかかったし、立ち直ってからも自分は何をしても続かない、自分はダメというのが心のどこかにずっとありました。
 働いてみても続かなくて、やっぱりダメだったという繰り返しで、どんどんマイナスに考えてしまいました。
 途中で何かしようかなと思っても、どうせ無理だからとあきらめてしまったり、自分はダメだからと開き直っていました。



 結婚してからもずっとそういう状態で、1日に頭を3回も4回も洗うんだけれど頭が痒くて、その時下痢の症状もでていて、病院にも通院していたんです。
 病院ではどこも悪くないと言われ、精神的なことから来ているんじゃないかと言われました。
 何かあった時に飲んだらホッとするよと精神的なことから来る下痢止めの薬を貰いました。



 今は飲んでいませんが、昔から私は病院が嫌いで薬も飲んだことがありませんでした。
 そんな私が病院に行くというのはよっぽどのことだったんです。
 おなかに症状が来てもその薬を飲むとピタッと止まるので一時期薬が離せなくなって、薬を離すときもすごく勇気がいりました。



 最初は息子の不登校のことで頭がいっぱいで、そればっかりを考えてこの会にきていたんですけれど、だんだん自分のことで来るように変って来ました。
 今までは結構悔やんでいたんです。



 若いときに何かしていれば人生変わっていたのになとか、親のせいにしてみたり、いろんなせいにしてたけど、今はあのときのことは無駄じゃなかった、あのときがあったから、この親の会で学んでいける今の自分もいると考えられるようになって、すごく楽になってきている状態です。



 別にどこも悪くないんですが、外の物音や声に敏感になっているときがあって、心臓がドキドキドキって打つときがあるんです。
 休んでるけど、すごくしんどくて、何もしてないのにすごくしんどいときってあるんですよね。



 息子が不登校になりだした頃に、息子が昼間「しんどい」と言ったり、ちょっとゲームを触っただけで、「もう疲れたから止める」と1日に何回も言った時があったんです。
 その時は何もしてないのに何を疲れているんだろうと思ったんですね。漠然とした疑問がありました。



 そのときはわからなっかったんですが、私自身がご飯と掃除くらいで最低限の家事しかしていないのにすごく疲れている、寝ても疲れていて、あくる日も疲れている、疲れが取れないんですね。



 ようやく息子がしんどいと口走っていたときの気持ちが自分で体験してわかるようになりました。休んでも休んでも心がしんどかったんですね。
 ここで勉強させてもらって、親の会で言っていたのはこういうことなんだ、これでいいんだ、もっと休めばいいんだなと思えるようになってから、しんどくなっても後が楽なんです。



 私は中学の頃から休むことがなかったし、家に居場所がなかったから家にいることもほとんどありませんでした。
 常に働いていなくちゃだめ、何かしていなくちゃだめ、という感じで、父親も姉も一生懸命働く人で、私だけが勤まらなくて辞めてしまい、石の上に三年って言うだろうといろいろ周りから責められて、勉強しようと思うけれど、それも長続きしなかったですね。



―――あなた自身がずいぶん無理していたんだなあと気がついたんですね。



 はい。だから今は働く気もないし、無理をせずに私と子どもと犬のダスと3人で昼間家にいるのが幸せです。
 今まで笑っていなかった時期もあったんですけれど、今3人でいてすごく笑っている自分がいます。



 ダスを見ているだけでかわいくて、どうしようかなと思うくらいです。
 息子が「ママおかしいよ」というくらいダスをかわいがっているんです。
 見ているだけでおかしくて笑いがでる、横にいる息子を見ているだけで笑いがでる、心から笑えるんですね。



―――よかったですね。中学の頃からずっとあなたは心から笑えることがなかったのね。
 だから本当に休むってことが大事なんだということと、それがむずかしいということに気づいて、自分を大事にするということに気づいてこられたんですね。




 そうですね。私は勉強は大嫌いだったんですが、通信教育のアニマルナースがどうしてもしたいと思ったんです。
 でもその時点ではまだダメというのがあったから、それをするまですごく怖かったです。



 別に学校に行くわけではなく家で勉強できるので、誰にも勉強していることがわからないし、出来なかったら放り投げてしまえばいいことなんだけれど、自分の中で自己否定が残っていて、もし途中で止めてしまったらそのあと自分はどうなるのかなと考えてしまいました。
 多分どうにもならないんですが、すごく怖くって、でもすごくやりたくって、申し込むまでの期間はものすごく悩みました。
 やってみたらとても楽しかったんですが、多分その時点でダメって言うのが残っていて、すごく揺れました。



 今高校の進学をどうしようかなとお子さん達が悩むのはそういうのと同じなのかなと思いました。
 普通の人にとってはなんでもないことが、私にとっては一歩踏み出すこと、はがきを一枚出すことに計り知れない勇気が要りました。



 そういうこともこの会に来ていなかったら、また止めたらと考えると怖くて出来なかったと思うんですが、そういうことから1つ1つ、子どもと私は年齢は違うけれど、同じ状態を歩いているのかなと思います。



―――この親の会はどうして知ったんですか?



 この会は不登校関係の本の一番最後に載っていた全国親の会のリストの中から見つけました。内沢さんの電話番号が載っていたので電話をさせてもらいました。
 電話するのもものすごくドキドキで、この会に来るときも最初は心臓がバクバクしてました。



皆さまのおかげで100号をお届けできることに感謝します!


 
呼びかけ人 長谷川登紀子さん

 「一緒に支えあっていきましょう」と呼びかけて、あれから15年経ったのですね。
現在24歳になった二男が、小3のときお腹が痛いと言って学校を休むようになり、私は「将来が心配」と学校に行かせる事だけを考え、学校に追いやっていました。
 ある日能面のように表情がなくなった息子を見て、「学校よりも子どもの命が大事」と、100日かかってやっと腹をくくったのでした。



 その後不登校の9歳の息子が時間をどう過ごしていいか分からず、畳の上をのた打ち回りました。どんなに苦しんでも私はこれは息子が自分で決めることだと思い、「あーしたら、こーしたら」と言わないで、どんなに辛くても見守りました。



 それは、私が腹をくくらずに息子を学校にまだ行かせ続けていたとき、「あーせ、こーせと言わないで!」と息子が叫んだことがありました。
 「ああ、私は学校と同じことをやってるんだ」と胸がつかれる思いで、どんなに苦しんでも手を貸すことはやめました。これが私の基本でした。



 子どもが不安なときは黙って手を握る、黙って抱き締める、私は息子の布団の横で一緒に寝てやりました。よけいな言葉は要りません。



 この長い親の会の歴史の中で、今一番感じていることは「親は子どもの不安から出る言葉に振り回されてはいけない」ということです。
 一生懸命応えようとすることは我が子をいっそう辛くさせます。
 どんなに泣きながら不安を訴えても、子どもの言葉で右往左往しないでほしい。
 親が先に答えを出してはいけない、子どもが出す答えを親はじっと待つことが大事だと思います。それが本当に我が子の生きる力になるのです。



 子どもの命があって、自分が今生かされている日々を、これからも感謝しつつ生きたい、そして日々楽しく暮らしたいと思っています。
 会報100号にあたり、スタッフの方々、本当にありがとうございます。
 これからも会員の皆さまと一緒に成長し、支えあっていきましょう。



 
世話人 川島和子

 親の会で皆さんが話される中身は、濃くて、体験し、苦悩し、涙し、そこからご自分の生き方を見つめ直してこられただけあって、私自身、ハッと気がつかされる場面が、15年間毎回毎回ありました。



 我が子の不登校は、親の価値観、生き様、夫婦の在り様、嫁姑問題など多くの問題を投げかけました。
 全てに答えが用意されているはずもなく、心を許しあった親の会の皆さんのおひとりおひとりの発言が、再度テープ起ししながら聞くと、また胸を打ち、人間の素晴らしさを私に教えてくださいました。



 直接我が子が不登校であったわけではありませんが、私自身がどう生きるかを常に心に問いかけられる15年間でした。
 健康である限り、親の会へ毎月参加し、テープ起こしをしながら、五感や脳を活性化させ素敵に年を重ねて生きたいと思っています。                     



 
世話人 渡辺笑

 95年4月B4手書きたった1枚で発行、これが記念すべき1号です。
 当時「子どもの人権を守る連絡会」の事務局長として多忙の毎日の代表朋子さんに、「簡単でいいから、お知らせ程度でいいからね」と「甘い言葉」をささやかれて、そのときとにかく1枚書いたのが始まりでした。



 次からは木藤さんが加わって枚数も3枚になって、1年間、11号まではせっせと二人で手書き、その後木藤さんの息子さんのパソコンで、私たちはワープロで、活字になった会報を手にした時は感動しました。あれから10年、100号です。



 奇しくも1号には木藤さんと当時中2の息子さんの担任とのやり取りが載せてあり、100号にはその息子さんの巣立ちが掲載。
 内容も10年の歳月の重みを感じます。
 時間的に大変なやりくりをした時もありましたが、今はそれも懐かしく、内沢玲子さんが会報作りに加わって、ワープロのブラインドタッチで私たちの衰えつつある手足をカバーしてくれ頼もしい存在で、この頃皆で甘えています。



 なんと言っても会員の皆さんの貴重な体験を会報にしていく作業ですから、例会をもう一度楽しみながら、少しでも自分のものに出来る時間です。
 さらに内容も充実してきていて、出来上がるとその晩は枕もとで読み返します。このときが一番ほっとするときです。



 
世話人 瀬戸山恵美
 
 アイ、アム、ア、ガール(教室中笑い声) 先生も笑って、フォローなし!!
言い終わった私の顔は真っ赤! 楽しみにしていた初めての英語の時間は、この瞬間からずっと苦手な時間になりました。
 英語らしく発音したつもりで、アイ、アム、ア、ガォ―ルになってしまったのです。(今では私も笑ってしまう)



 あれから40数年、今私の楽しみは週何回か無理することなくラジオの英語講座を聞くことです。
 自分が自分の人生の主人公として生きる。とっても楽しいです。
 これも、登校拒否を考える親、市民の会に参加し子どもさん達から学んだおかげです。ありがとうございます。



 
世話人 木藤厚子
 
 渡辺笑さんから「親の会ニュース1号には木藤さんの場合が出てるよ」と教えてもらい、古い資料を探して見ました。
 エー、こんなやりとりがあったんだっけ?と、今ではすっかり忘れてしまっている息子が中学の頃の担任とのやり取りが載っていました。



 次々とニュースを読んでいくと当時の親の会の様子が鮮明に再現され、いろんな体験し、たくさんのことを学ばせてもらったと思います。
 息子とは毎回、イスを並べて一緒にパソコンに向かい、ニュース作りをしました。
 ニュース作りは私にとって親としての自分を見つめ、息子にとっては自己を肯定していくための作業だったと思います。その息子もこの3月巣立って行きました。



 ここには皆さんご自身とご家族の歴史が記録されています。
 不安な気持ちで訪れた初めての親の会、回を重ね皆さんと交流する中で我が子の気持ちが理解できるようになって子どもさんが心を開いてきたときの様子、家族であることの喜びがいっぱい詰まっています。時には振り返って読んでいただければ幸いに思います。



 
世話人代表 内沢朋子

 1987年、県立牧の原学園で13歳の少年が7人の教護員の3時間にわたる暴行で殺害されるという事件がおきました。
 当時、全国的に体罰が横行している状況の中で起きた痛ましい事件でした。



 事件後、聞かされた多くの声は、少年の死を悼むより、加害者の「運の悪さ」ばかりで、唖然としました。
 人を教育する(と言われている)学校現場で子どもの人権は守られていない…。
この事件は、私の運動の取り組みの原点です。



 88年、子どもの人権を守る鹿児島県連絡会を結成し、直後、150件に及ぶ体罰実態をもとに、体罰防止マニュアルを鹿児島市教委につくらせたり、当時全県丸刈り強制校則に反対する運動にと活動のノロシをあげました。



 物言えぬ閉鎖的な学校で丸刈り校則に代表される管理強化、体罰が横行し、当然いじめがはびこっていました。学校に教委にどこにでも乗り込んで行きました。
 「内沢」の名前と一緒に連絡会の存在を知るのに、多くの時間はかかりませんでした。
 「学校の常識は社会の非常識」でした。
 学校での人権侵害に麻痺している教員たち、「何が、学校の主人公は子どもさ!」と怒りがわきました。



 それと平行して、不登校の数も右肩上がり。
 学校の実態を見てきた私たちは、「学校に行かなくなるのはあたりまえだよね」とうなずきあったものです。
 しかし、学校は自分たちの責任を棚上げして、不登校の要因は家庭にあると不登校の子と家族を責めつづけました。



 89年5月3日、主催した「子どもの人権ってなーに」という集会で、長谷川登喜子さんが「一緒に励ましあってやっていきましょう」とよびかけました。
 3家族で船出した親の会は、小さくても子どもの人権を守り、子どもたちの生きる選択を応援する会として、志は大きく、嬉しかったのを覚えています。
 スタッフは連絡会と同じメンバーであるのも発足の趣旨からいえば当然です。



 不登校、ひきこもりの増加は、自分を大切にしたいと自己主張する子どもたちが増えてきたということです。
 「たいしたもんだなあ、なんてすてきなんだろう」と毎年の不登校の増加にワクワクした思いでした。



 92年、当時の文部省も「降参して」、「どの子にも登校拒否は起こりうる」と発表。96年には、「いじめから身を守るためには、不登校の選択を」とやっと呼びかけ、「不登校は家庭に問題あり」とする学校現場の考え方を戒めました。(文部省のアンケートで教員の9割近くがそう回答した)



 不登校は、当然、親の生き方の価値観も変えて生きます。
 「不登校した我が子を誇りにこそ思え、ヒゲするものではない。そういう我が子を育てた自分に自信を持って」と、今もその思いは強くなるばかりです。



 学校は子どもの人権が守られていないという実態のなかで、いじめ自殺も増えていきました。私たちも7人の子どもたちのご遺族の方たちにお話をお伺いし、それは辛い作業でした。



 そして、96年知覧中3年村方勝己君のいじめ自殺裁判闘争、勝訴へとつながっていきます。いじめ自殺は、不登校によって命を守る術を教えられていない子どもたちのあまりにも悲惨な結果です。この世に命にまさる価値観があるわけがありません。



 村方勝己君の事件は、不登校の大切さを私たちに教えてくれる大事な教訓です。
親の会と平行して取り組んできた、50人で発足した子どもの人権を守る連絡会は450人の会員の手で支えられ、裁判の終了の年に幕を閉じました。



 3家族で始まった親の会は、最初から信念がありました。
 子どもたちの気持が誰よりもよくわかりました。子どもの人権を守るという視点から目をそらさずに受け止めてきたからです。15年の月日を経て、今、90家族の方々が会を運営しています。



 例会はいつも明るいね、とよく言われます。自分を大切にしたい、自分の人生を自分らしく生きたいと自己主張している子どもたちの今にマイナスの評価はあり得ません。
 そして親達が我が子から自分を大切にする人生論を学んで行きます。



 15年の歳月で、親の会から一番学んだのは、私ではないかと思っています。
 毎月、毎月感動を共有できるなんて、なんてすばらしい人生を送れるんだと感謝しています。
当然、私の人生観も豊かに変わっていきます。



 昔から、「我がまま」、「自己主張が強い」、「注意力さんまん」(あとは忘れた)などと、あたかも短所であるかのように言われた私です。(「自信過剰」は自分で言ってる)大体、人間を短所、長所なんて分けることこそがおかしいのです。



 それが、親の会を通して、「わがまま」は「われあるがまま」、自己主張・・は「自分を大切にしている」、注意力さんまんはあたらない。15年続いているのです。人は嫌なことを強いられたとき注意力がなくなるんですね。楽しくてたまらないから続くんです。



 いつしか私たち夫婦は、「たっちゃん」、「ともちゃん」と呼び合うようになり、ついでに親の会のホームページの社長はともちゃん、工場長は娘の玲子(25歳)、社員はたっちゃん、ひらは愛犬コナンです。



 生きることがどんどんすてきになっていく。
 そんな親の会は心から私の大切な財産になっています。
貴重なみなさんの体験が宝石のように輝いている、それが100号も続いた最大の要因です。そのことに感謝します。




このページの一番上に戻る→


体験談(親の会ニュース)目次へ←


2004年5月発行ニュースはこちら← /TOPページへ/ →2004年3月発行ニュースはこちら



Last updated: 2004.4.14
Copyright (C) 2002-2003 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)