登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2009年4月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.154より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら




子どもの「ために」と「立場で」の違い

3月例会報告


例会冒頭、Sさんにわが子を「“心配”しないで“信頼”する」ことの大切さを話してもらいました。

内沢達は「子どものために」と「子どもの立場で」の違いについて話しました。

永田さんは、HPの掲示版に「以前、息子に“あなたのため”“将来のためよ”とどれほどひどいことを言ったことか、・・・息子の“立場で”考えるとよくわかる」と書き込みました。
mihoさんは、「子どもたちの“ために”という考え方をしなくなってきた。子どもは自分の力で解決していく。私も自分を一番大事に生きていくことが家族のためでもある」と話しました。
真衣さんは、他の人との関係で「“あなたのため”という“善意”を断ることはとても難しい。でも、相手にムリして合わせるのはよくない。自分の気持ちを出していくことがいかに大事なことか、発見した」と話しました。

2月例会に引き続いて、「わが子に、ありがとう!」を出しあいました。
妙子さんは、息子さんに「親の会に出会えたのもあなたのおかげ。ありがとう」とメールを送りました。
同じく兵庫県から参加した惠さんも、息子さんに「あなたのおかげで自分を大事にして生きていこうと思えるようになった」と例会参加の前日に手紙を書きました。
大阪から参加した直美さんも、「夫と向き合うようになれたのも娘のおかげ」と何回も「ありがとう!」と言っているそうです。直美さんは夫婦間でもけっして我慢しない、我慢すると「優しさは優しさで」ができなくなるからだと言います。
しずりんさんの体験も合わせて、夫婦のあり方について深めました。

プラダー・ウィリー症候群の障害がある息子さんのことで、Hさんが初参加しました。障害がある場合は、多かれ少なかれ誰にでもある困難や課題がいっそう分りやすい形であらわれると思います。だから、私たちはHさんの体験からいっぱい学ぶことがあります。

「人の話はわが話。わが話はみんなの話」。今後ともいっぱい学びあっていきましょう。



目次


1 「心配」しないで「信頼」する   Sさん(母)
2 夫婦ふたりで星を観たり山登りをしたり、息子のおかげです
  永田さん(母)

3 不登校になってくれてありがとう   megurinさん(母)
4 「自分で悩んでいるんだから、ほっといていいんだよ」
  (娘の強迫行動と私 その3)  KMさん(母)

5 障害の有無にかかわらず学びあえる  内沢 達




「心配」しないで「信頼」する   Sさん(母)


息子は今29歳です。私が親の会に参加したのは14年前です。
息子は中3の3学期から行かなくなって、高校に入学してすぐの5月からピタッと行かなくなりました。その時私達の中には、行けないんだなということを認めつつも、高校だけは出たほうがいいんじゃないかという気持ちがありました。


学校に行かなくなって家にこもるようになり、時間が経つごとに息子が焦っていきました。というのは友人がたくさんいましたから、その友人達が進路を決めて行く頃から、みんなとの遅れを感じて、自分も高校に行く、ということを考え始めたと思います。私達は息子の言いなりになって予備校を探すなどいろいろしましたが、結局再受験すると言っていたのが、直前になって受験しませんでした。


―――
息子さんが暴力をふるうようになりましたね。


ひとつ年上の兄が大学受験の頃でした。蛍光管を割ったり、私達の寝ているところに来て蹴ったり、包丁を振り回したり、ということがありましたね。私達が朝仕事に行こうとすると免許証を取り上げて出かけられないようにするんです。でも間際になると必ず返すんですね。

わかってくれというサインだったんだと思います。仕事から帰ってくるとそれを待っていたかのように包丁を突きつけられ、1晩中、黙って子どもと向き合っていたこともありました。その時が一番怖かったピークでしたね。

親の会で、子どもに暴力をふるわせてはいけない、怪我をする前に逃げなさいというアドバイスをもらっていたので、そんな時は夫婦で車の中で寝たり、ホテルに泊まったりしました。

長男は次男とは別の部屋にいたんですが、何事もないように無関心でいてくれて、それが救いでした。次男も兄には何もしませんでした。でも一度だけ、長男が次男のプレミアの靴を友人に売ったということで取っ組み合いのけんかになり、血が出たことがありました。その時も長男が冷静になって「こケガしていないか、大丈夫か」と言ったことがあったようで、夫が見ていて大変だったと話してくれました。


―――
その時はご両親は息子さんのことを・・・?


怖かったですね。万が一ということを考えると、信用できないというか。一度長男が警察に言おうかと言ったことがありましたが、それはさすがにしませんでした。そういう状態が1年8ヶ月続きました。

息子はいろんな要求をしてきました。私達は息子が欲しいのならとほとんど買い与えてきました。中でも400ccのバイクの免許を取ることに執着していました。熊本の宿泊付きの教習所まで行っても中に入れず、そのまま帰ってきたり、他に連れて行った自動車学校も全てが気に入らないと言ったり、いいなりになっていました。

平成9年7月、夏祭りの時でした。夫が私にも内緒で大型バイクの免許を取っていたのが、息子にみつかりました。息子は「なぜ、俺より先に免許を取ったのか、なぜ隠していたのか」と言って、夫に詰め寄りました。

大型バイクは免許を取る前に買っていました。夫が訓練所に行く前に息子に教えたいがために免許を取ったんです。その時私は「お父さんがどういう気持ちでその免許を取ったのかわかるでしょう。お父さんのやさしさがわかるでしょう。どれだけあなたのことを思ったか・・・」と訴えました。

すると息子は包丁をポトンと落として、無言のまま泣きだしました。夫の優しさは息子が一番よく分かっていてくれたみたいでした。息子は夫に近づき、夫を起こして握手を求めました。そのあと、私を呼び「・・・俺は昔に戻りたい、戻れるだろうか」と泣きながら言いました。


―――
その時の三人で食べた食事がとてもおいしかったんでしょう。


そうなんです。奥の方で二人のケンカしている声を聞きながら作ったカレーだったんです。大した御馳走ではなかったんですが、三人がわかりあえて初めて食べるご飯だったものですから、おいしかったですね。そしてその日に何年振りかで初めて3人で車で外に出て、その時に息子が「高校野球でお母さんの田舎の高校が出るね」などと会話をしました。

それで気持ちが打ち解けたかなと思ったんですが、そこからが長かったです。
(笑)


―――
これでうまく行ったと思って、親の会はもういいと思ったんですね。(笑)
その後5年間お休みされたのね。


大検を取るときには親が書類を揃えたりして手伝いましたが、しかし大学は自分で準備して、通信制大学に入学して東京で4年間生活しました。あちこちのスクーリングにも行っていました。その間、私達は親の会をずっと休んでいました。もう問題は全然ないかなと思ったんですね。(笑)


―――
大学を卒業して帰ってきた息子さんは、就職の段階でやっと動けなくなって完全に閉じこもってしまったんですね。その後新しい家を建てたけれど、リビングの大きなガラス窓を割ったり、何十万円もお金を要求したり・・・。その頃あなたは、私達家族はもうだめかもしれないと思ってしまったんですね。


その時が私達が一番悩んだような気がします。今まで自分のことを語らなかった息子が就職を目前にしていろいろ言い始めたんです。車で移動する時も、家にいる時も、ああだ、こうだと話し出し、どうするんだ、すぐ答えろ、と答えを求めて責めてきました。

答えようと無理して焦り、どう答えていいのか返事ができなくて、ただ聞いているだけでいいという親の会の話でしたが、それもできなくて行き詰ってしまいました。息子は「精神科の薬を飲まないとだめだ」と言いだして、私が具合が悪いということにして、薬をこっそりもらいに行って息子に飲ませたこともありました。その後、親の会に真剣に通うようになりました。


―――
俺の言ったことをノートに書け、と言われて書かされて、それをここで発表したり、息子さんの質問を持って私のところを訪ねたり、ということもありましたね。親御さんがとっても不安だったのね。


これに対してどう答えたらいいのかというマニュアルが欲しかったんですが、そうではないんだということに気がつきました。自分で自分のことを考えなさい、何も言わなくていいんだ、ということだったんですが、それができなくて。

ああだ、こうだととにかく迫ってくるので、ひとつ余計なことを言うと、それに対してまたばーっと言ってくる勢いでしたので、夫も同じように答えようとするんですが、受け答えができなくなっていきました。それがきつかったですね。


―――
だんだん気持ちが楽になっていったのはどうしてですか。


やはり、ここで「心配と信頼」の話を聞いてからですね。夫が息子と向きあってくれました。


―――
「心配」しないで「信頼」することが大事という話ですね。
心配しているうちは、まだまだです。信頼して「親は何もしない」ようになると好転してきます。
「死にたい、死にたい」と言って荒れていた息子さんに対して、あなたの夫が迫ったんですね。感動的なお話ですね。


息子は自分で職を探し始めました。面接を受ける度に落ちて、表情は暗かったです。就職がなかなか決まらず「俺はもうだめだ」と焦っていた時期が3ヶ月くらいありました。
ある日、夫が息子といっしょに買い物に出かけたとき、イライラしている息子に対して「お前の言いなりになって、オロオロしている親を、どう思うか」と切り出したみたいです。


―――
お父さんが息子さんを信頼して言った第一声でしたね。その時から変わっていったんですね。


そうですね。そこから息子も変わっていきました。また黙々と職探しを始めて、私達が映画を観ている途中に電話がかかってきて、「パチンコ屋に決まったんだけど、すぐ辞めるかもしれないけれど、そこでいいかな」と言ってきました。

夫は「お前が決めたんだから、いいんじゃないか」と返事をしたということでした。そこから自分で制服をもらいに行ったり、手続きをしに行ったりして、今勤めて2年半になります。その間移動もあり、今は一人暮らしをしています。

人が怖くて会えないと言っていた息子が、接客業をしています。職場でもみなさんに結構気に入ってもらっているようです。貯金もこれだけ溜まったよと教えてくれました。


―――
辛い事もいっぱいあったけれど、振り返ってみたらとても良かったということですね。


それだけの時間が私達には必要だったのかなと思いますね。すぐにはこの親の会の考え方が理解できずに行動に移せなかったけど、遠周りではあったかもしれないけれど、それは私達が納得するために必要な時間だったと思います。

一つひとつのいろいろなことがあったからこそ今の幸せがあるし、振り返って思い出して経緯をたどると、息子は親のことをすごく思ってくれているんだなあということもわかります。もしも何事もなく過ごしてきたら、息子の性格や優しさも見えなかったかもしれません。こういうことを経てきたので見えるんだなと思います。


―――
子どもを変えようとするんじゃなくて、自分たちの不安をなくしていくことが大事なんですね。一度引きこもりの会に寄り道したこともありましたね。(笑)


その会は、子どもを学校に行かせるように、子どもを変える方向にもっていこうという会でした。その時はとても辛かったし、手探り状態で、子どもが変わってくれれば問題ないと思っていました。小さい時はあんなに明るくていい子だったのに、何があの子を豹変させたのかなと、自分を責めたこともありましたが、そういう見方はおかしかったと思います。本当に今幸せですね。


―――
みなさん、「人の話は我が話。我が話はみんなの話」です。たくさんの教訓をぜひ、学んでいただきたいと思います。かけがえのない人生を大切に、自分が自分の人生の主人公として生きているか、学びあっていきたいと思います。




夫婦ふたりで星を観たり山登りをしたり、息子のおかげです

永田さん
(母)


今18歳の息子が高1の3月で退学して、2年経ちました。小、中学校は皆勤で、高校も希望の学校に入学しました。部活で辛いことが続いていたらしく、10月のある日からどうしても体が動かなくなって、行けなくなりました。

不登校になった初めの頃、息子は自分の部屋を野球のバットでめちゃくちゃにして、「俺は学校に行かない」と宣言しました。でも窓ガラスだけは割りませんでした。後で「どうして窓ガラスを割らなかったの」と聞いたら、「ガラスを割ると後が大変だと思った」と話していました。(笑)

その時私は降って沸いたような子どもの登校拒否をどう対処していいかわからず、親の会があることも全く知りませんでしたので、とにかく息子を学校に戻すことが息子の人生を取り戻す最大のことだと考えていました。

でも息子はどうしても学校に行くことはできず、「あんなところには戻らない」と言うし、夫も「息子が望んでいるのなら退学を」と言って、高1を終わる時に退学しました。その年の5月から親の会に参加するようになって、大変助けられました。息子はそれから丸2年引きこもっています。


―――
あなたは先月「不憫」という言葉について、自分がそんな風に言われたらイヤですよね、という話をしたんですね。


不憫だと思っていた気持ちは、私自身の不安だったんだということに気がついたんです。「私が不安だったんだ」と自分に言い聞かせたら、不思議と納まってくるものだなと気がつきました。

ですから「不安を否定せず、ともに生きていく」ということが体感できました。

先月お話したカノープス星を見ることができました。遠くの南の海まで行かないといけないのかなあと思っていたんですが、犬迫にある健康の森公園の展望台から観ることができました。肉眼では無理なんですが、双眼鏡で間違いなくそれとわかりました。夫と二人で「良かったね。星を観ることができて。もしも息子のことがなかったら、ふたりで星を観に行ったり、山に登ったりすることもなかっただろうね」と言って帰りました。ですからよく考えたら、息子から豊かなものをもらったのかもしれないと思いました。


―――
あなたの夫は以前システムエンジニアのお仕事でした。転職されて今はタクシードライバーをされているのね。息子さんのことを通して、今は無条件の愛が大切と思えるようになったのね。


はい。その時も家の中はゴタゴタしたんですけれど、今となっては夫の転職のことも認められるようになって、良かったねと感謝できるようになっています。

親の会ではいつも「息子さんに感謝ですね」と言われるんですが、どうしてもそこだけは違和感があったんです。私はおかげさまで元気になりましたが、それは親の会のお陰で、息子はやはり頭痛の種ですという思いの方が強かったんです。

しかし、もしかしたらちょっと違うかな、息子のお陰かなという気持ちが出てきました。まだ妙子さんみたいに「ありがとう」と言えないんですが。

(―――
是非そう言ってね

息子はずっと家にいて、この1年間は友人との付きあいもなかったんですが、友人達はそれぞれ進路が落ち着いたからでしょうか、ここ2日くらい続けて遊びに来ました。息子に「あなたが嫌だったら無理に行くことはないんだよ、会わなくてもいいんだよ」(笑)と言ったんですが、息子は「せっかく来てくれたんだから行く」と言って出かけました。

帰ってきて息子は「俺、自動車学校に行こうかな」と言いました。私は「世間の風」を感じてきたなと思い、ここで私が同調して後押しをしてはいけないと思って、「ふーん」とだけ言いました。(笑)

翌朝も息子が「免許があればバイトだってできるし、また勉強だってできるかもしれない」と言いましたので、私は「ああそうなの、ふーん」とすませました。(笑)


―――
あなたはそういうことを言われても、心に波が立たなくなったんですね。


立たなくなりましたね。以前の私だったらきっと飛びついて「そうだよ。人間は何かしないといけない。じゃあお母さんが明日自動車学校に行って資料をもらってくるから、どっちの学校がいい? 最初は送って行くよ」と間違いなく言っていただろうと思って、可笑しくなりました。(大笑)




不登校になってくれてありがとう  megurinさん(母)



兵庫県から参加しました。今17歳の息子が高1の秋に「なんで学校に行かないといけないのか。なんで学校というものがあるのかわからなくなった」などと言い出して行かなくなりました。「もう無理や」と言って自室に引きこもり、半年後に退学しました。

今考えると、退学の時もまだ息子には不登校というものが受け入れられていなかったと思います。退学の手続きに一人で行ける状態ではありませんでした。その頃私は親の会と出会って半年くらい経っていたので、手を貸してはいけないということを知っていましたが、息子の辛そうな様子を見るにつけ、私の方がこらえきれなくなって、私が息子に「退学届を出して来てくださいと言いなさい」と強制して言わせて、私が手続きに行きました。(笑)

それから丸1年です。私はすぐに親の会を見つけたので本当に助かりました。私は夫の両親と体の弱い夫の妹と私達4人家族の計7人で16年間生活してきて、働きながら家事もこなし、もう精神的に疲れて夫との離婚も考えている状態でした。何かあると切れる寸前でした。

そこへ息子の不登校が加わり、そのことで舅と私が大喧嘩したのです。舅に信頼されていないことがわかり、もうこれ以上いっしょに住めないと思い別居を決めました。夫も同意してくれました。しかし息子には一切言わないで私の一存で進めていました。


引っ越しの2週間前に話したら、息子が暴れ出して「俺がこうなったのはお前ら夫婦がケンカばかりしていたからだ。家に火をつけてやる。育て方が悪かったんだ」と、私達を責めるメールをずっと送ってきました。携帯のメールが非常に怖かったです。

親の会の3原則を守らなくてはいけないと必死でした。「もうそんなことにかまわずに鼻歌でも歌いなさい」と朋子さんに言われて、歌いたくもない鼻歌を歌いました。(大笑)

息子は朝から晩まで私に強制してきました。私は「何言ってんのよ」と口では言いつつも表情はきっとオドオドしていたと思います。下に娘がいるのですが、この妹が高校に入学したらどうなるんだろう、もっと息子は荒れるんじゃないか、という先々の心配までしていました。

1年間、オロオロしながらも3原則を守ってやってみると、みなさんが体験されてきたように息子は落ち着いてきました。私の気持ちも少し落ちついてきましたね。今、こんなことを言ったら絶対に荒れると思っても頑張って拒否すると荒れるどころか息子は逆に嬉しそうにしていたりしました。

テレビのチャンネルを勝手に変えたりすると、私は「いい加減にしてよ」と言いつつも、嫌だから2階へ上がったりしていました。でもある時、どうしても見たいテレビを「携帯でテレビをみれば」と言われ、携帯で見ていたんです。でもやっぱりおかしいと言ったら、息子がニコニコして「今頃わかったか」と言うのです。(笑)

この子は私を今まで試していたのかな、私とコミュニケーションを取りたかったのかなあと思うようになりました。


息子に「ありがとう」と言おうと思ってはいたんですが、なかなか言えずにいました。先月の例会に参加して、本当に言おうと思っても本人の顔を見ると言えないんです。「このおかずはおいしくない」と言われるとますます言えなくて。(笑)

心の中ではいっぱい「ありがとう」と言っているんですが、照れて言えないのです。だから息子が何か手伝ってくれた時に心の中では「不登校になってくれてありがとう」という気持ちで、「ありがとう」と心を込めて言っていました。(笑)


妙子さんの掲示版を見て「私も息子に手紙を書こう」と思って、昨夜便箋一枚に書いて置いてきました。「鹿児島の親の会にはできる限り参加したいと思っています。鹿児島の親の会は嘘がなく明るくて楽しいから。あなたのおかげですごく素敵な人たちに巡りあうことができました。あなたのおかげで私は人生をありのままの自分で大事に生きて行こうと思えるようになりました。最後に、生まれてきてくれてありがとう」と書きました。(涙)

3月末が誕生日なのでその時に肉をたくさん食べさせて、「生まれてきてくれてありがとう」と言えば良かったかなと思いました。(笑)


―――
それは良かったですね。あなたの素直な気持ちなんでしょう。(はい)
お誕生日じゃなくても、「生まれてきてくれてありがとう」と書いて良かったじゃないですか。


そうですね。息子は小さい時から私たち大人の本質をよく見抜く子だったんです。私たちは息子に「あなたが私たちの子どもでありがとう」ってよく言ってきたんです。今は「不登校になってありがとう」と本当にそう思っています。

私が小さい頃は、家の中がゴタゴタしていたので、私も長女だったし、私が頑張って家の中を循環させていくのが私の役目だと思ってきました。実家の反対を押し切って、今の夫と結婚した時も、実家への負い目もあり、嫁ぎ先でも長男の嫁としてしっかりやろうみたいなところがあって、ずいぶんと無理をしていました。


しかし息子の不登校をきっかけに、この親の会へ参加するようになって「ああ、私は私のままでいいんだ。実家や嫁ぎ先のことは考えなくていいんだ、私と一緒に家を出てくれた夫との生活だけを考えていたらいいんだ」と思って。45年間の生き方、考え方を急には変えられないけれど、しんどかったけれど変えてみたら、「ああ、こんな生活があったんだ」と思って・・・


―――
あなたは1年前は夫と離婚すると言っていたのよね。(笑) 今、とっても幸せなのね。


はい。鹿児島の親の会に参加すると自分が安定するし元気になるので、遠いですが、できるだけ出かけてきたいと思っています。




「自分で悩んでいるんだから、ほっといていいんだよ」
(娘の強迫行動と私 その3)

KMさん
(母)


現在28歳の娘は中2で、22歳の息子は小6で不登校になりました。娘はゆっくりと休むことなく通信制高校に行き、その後拒食・過食になり、今、強迫行動で何時間も部屋の掃除をしたり、お風呂に入ったりで、私にそこを通ったらいけない、ここを通ったらいけないと言って。状況は変わってはいないのですが・・・


―――
M子さんの夫は昨年10月に亡くなられて、今は娘さんと二人暮らしなのね。いっしょに家にいた下の息子さんは、今はM子さんの実家に住んでいます。
昨年12月例会で、M子さんは「娘と一緒に住みたくない、けんかしても仲直りしたくない、出て行ってもらいたい」などと話されましたね。「私の場合、特別な環境だから、森田さんのようにはなれない」と言っていたのが、例会に参加するとお気持ちが楽になっていくのね。

先月の例会の後、お電話を頂きました。「お母さんは親の会で愛をいっぱいもらいに行くんだよ」と娘さんに言われたのね。私はそのことをHPの掲示板に書き込みました。会報の最後のページに「愛をたくさん・・・」と題して掲載しました。



今、読んでもらって泣きそうになりました。親の会のみなさんや朋子さんの声を聞くと、温かいものが溢れてきます。ここで愛をいっぱいもらい、その感動を家族に還元しているのかなと思いました。

先月の例会の後、実家に行って、夜中の1時過ぎまで例会の感動などを伝えて息子と、それから我が家に帰って娘と朝の5時まで話しこみました。娘は私の帰りを待っていて、「どうだった」と例会の様子を聞いてきます。娘も親の会につながっていたいという気持ちがわかります。もう朝だし、くたくたで寝ようとしたのですが、朋子さんの「書き込み」を娘と二人で読んでから、本当に良い気持ちで眠りにつきました。


状況は変わってなくても、そんな感じで少しでも娘と会話できる時間が増えてきました。娘も掃除機ばかりかけていたのが、会報を読んでみたり、10周年や15周年記念誌を読んだりしているようです。娘が「お母さんがいないとき、私はひとりでこれを読んでいたよ。

前は全く読めなかったよ。読もうともしなかったし、それが読んでみると愛美ちゃんも真衣ちゃんも玲子ちゃんも、みんな辛くて苦しかったんだね。自分だけがそうだと思っていたけど、みんなそういう時期があったんだね。自分だけが弱い人間だと思っていたけど、みんな一緒だったんだね」と言って。「掃除機をかけた後、お母さんとケンカして、出て行けと突き飛ばしたことがあったけど、でも、それはお母さんが嫌じゃないんだよ。弟のことも人格を否定しているわけじゃないんだよ」と言ったんです。

そして「私より早く起きたらお仏壇のお父さんにご飯をお供えしてね」と頼んでいたら、ちゃんとお供えしてくれて。亡くなったお父さんにこう言ったそうです。


「お父さんに似ているマイナス体質が嫌だったけど、今は悪いところも全部受け入れられるようになったよ。自分のことが好きになってきたよ。全部お父さんから貰ったものだから全て大好きだよ。お父さんの子でよかった」と仏壇でお父さんとお話すると聞いてすごく嬉しくて。

父親のことを子どもたちが否定しないで、夫は死んだあとも私たちに力をくれたんだな。死は終わりではなく、夫は私たち家族のもとに戻ってきて、つながっているんだなと思いました。(涙)


息子もよくお父さんに手を合わせてくれ、お仏壇を置いたら、「お家に魂が入ったね」と言いました。夫の死はマイナスになっていないと思いました。(涙)

子どもたちが優しく育っているので、安心しています。


―――
昨年の12月から毎月参加するようになって、回を重ねる毎にあなたのお気持ちも安心が増えてきましたね。自分の家だけが特別だと思われなくなりましたか。


はい、今すこ〜し。(大笑)
子どもの波によって私も揺れます。実家では特に、母には息子はこうだからわかってほしいと求めてしまうんです。私の子ども達が私にいろいろ言ってくるのと同じだなあと気がついて。私が10年かかってわかったことを、今の母が一朝一夕でわかるはずがないのに、母にわかってほしいと言ってしまい、母を「老人は若い人と生活できないのかな」と落ち込ませてしまいます。


娘は息子が行ってからお祖母ちゃんの家に行かなくなっていたので、3ヶ月ぶりに祖母と電話で話をしました。娘は「お祖母ちゃん、お母さんがいろいろ言うけど、落ち込まなくていいんだよ。自分たちのことは自分たちで解決するしかないので、お祖母ちゃんがどうしたということじゃないのよ。私も弟も自分のことで悩んで、年齢が上がってくるとさらに苦しさが増して辛くなって。でも、自分で悩んでいるんだから、ほっといていいんだよ。お祖母ちゃんは普通にしてていいんだよ」「お母さんはガミガミ言うだけだから」と話しているんです。私はうまく言ってくれたなと思って。(大笑)


足が悪い母は「お祖母ちゃんはあなたたちに何もしてやれなくてごめんね」と言って、「でも、お祖母ちゃんは話を聞いてくれるし、わかってくれるよ」「お祖母ちゃんのところにいくと癒される」と言ってるんです。
娘が「お祖母ちゃんが自己否定してたから言ったんだ」と私に言うんです。(大笑)

娘が自分の言葉で自分たちの気持ちを伝えて良かったなと思いました。それまでは私は両親に対して「親の会はこうなんだ、あなたたちはなんでわかってくれない」と偉そうに言って、この会報が届くまで、私は2、3週間イライラして暴言を吐いていたんです。


―――
娘さんは「自分で悩んでいるんだから、ほっといていいんだよ」と、とってもいいことを言っていますね。まさしくその通りです。自分がイライラしてるとあたってしまうのは、娘さんの立場に立って考えると同じことなんですね。状況は変わらないということでしたが、例えば娘さんが掃除機をかけているとき、あなたにあーしなさい、こうしなさいと言うんですか。


それがですね、娘が「今日はどうせお母さんが汚すから、もう洗面台は掃除機はかけなかった」と言うから、「わあ、あなたすごいね」と言ってですね。もちろん波もありますけど。


―――
それは素晴らしいですね。あなたが少しずつでも安心が大きくなっていったからそうなるんですね。


あら、そうなんですかね。(大笑) いや、私は意識してないですけど。


―――
未来永劫、12時間も掃除機かけたり、お風呂に入ることはないのですから。必ず気持ちが楽になってくると、こだわりがなくなってくるんです。
ワクワクするようになりましたか。



ワクワクと言うか、今日はこれとこれを自分の好きなことをしようということで。(―――
朝起きてため息が出なくなりましたか) それはなくなりました。


―――
それをワクワクに変えていきましょうね。あなたは親の会と出会えたのも子どもたちのお陰とおっしゃいましたね。


はい。息子と一緒にご飯を食べながら「こうしてあなたと食事ができて、お母さんはうれしいな」といつも言うんですけど、娘にはなかなか「ありがとう」と言えなくて。(笑)


―――
そのうち言えるようになりますよ。娘さんは必ずこだわりがなくなっていきます。あなたが信頼すればね。あなたはいろいろあって親の会に参加できない時期がありましたね。
(去年、一昨年と町内会の班長をしていましたから)
班長さんで町内会のお葬式を切り盛りして大変でしたね。(10回ほどありました)(笑) もう、人のことはしなくていいのですから、自分のことをしてくださいね。




障害の有無にかかわらず学びあえる

内沢 達



(プラダー・ウイリー症候群の息子さんについてのHさんの発言を受けて)

先ほど、大分のKさんが「息子は軽度の発達障害だ」とおっしゃいましたが、軽度とは何の障害ですか? (アスペルガーです) そうですか。認知・言語面での発達は全然問題ないけど、社会的関係が・・・というのですね。アスペルガーにはアスペルガーならではの、プラダー・ウイリー症候群には、やはりそれならではの考慮をしなければいけないことはあると思います。

けれども、障害があってもなくても同じ人間であることに変わりはありません。その障害ならではのことばかり考えていると道が開けていかないように思いますが、どうでしょうか。

HさんのところのK君もKさんのところのY君も、言うまでもありませんが自分で呼吸し、自分で食事をし、勉強したり遊んだりして、自分の力で生きています。障害があるがゆえに、健常者に比べると多少他の人の援助を必要としているということはありますが、誰しも辛いことは辛いしうれしいことはうれしいということに変わりありません。


私たちの会は、これまで参加者をグループに分けて交流するやり方をしてきていません。小学生の不登校をもつ親のグループ、中学生のグループ、拒食・過食・・・といったグループ分けです。今日のように参加者が40人を超えるとお話してもらえない人が大勢います。隣の部屋も確保していますし、発言の保障だけならグループに分けたほうがいいかもしれません。

でも、今後ともそうするつもりはありません。それは、子どもの状態が違っているように見えても基本的な対応に違いはない、たとえば小さい小学校低学年の不登校も、成人している20代の若者の引きこもりも、親のありようには違いがない、という考え方でやってきているからです。


私たちの会は、子どもをどうにかしようとする会ではないので、全然違っているように見えるケースからも「人の話はわが話。わが話はみんなの話」、じつは共通しているんだと学んできたんです。

障害を持っている人の場合は、いろんな困難がそうでない人に比べて、より先鋭な形で、つまり分りやすくあらわれるように思います。だから、そのお話は他の人にとっても勉強になります。逆に、なにひとつ不自由がないように見える人でも大変な困難に直面することがあります。そこのところを私たちの場合は特別な努力なしにやってきた実績がありますので、きっと学ばれることが多いと思います。

現代社会は専門分化が激しく、共通性が見失われているように思います。専門家と言われている人たちが本当に専門のところで誰もが「ああ確かにそうだなあ」と認められる成果をあげているのであればよいのですが、そうなっていません。ただ権威をふりかざしているだけという人が少なくない。人間を区分けして、個別に、特殊に見ているものですから、共通の法則性に気づかず、専門家はたこつぼに入った状態で全体が見えなくなっているのではないかと思います。結果として、一般の人に対して説得力がなく、不安をあおったり、権威的にのぞむということが多いのではないでしょうか。

プラダー・ウイリー症候群について、ネット上だけですが、相当見てみました。医学部教授などが治療法などについていろいろ書いているんですが、読んでいて納得できる感じが全然しません。


僕の考えはこうです。プラダー・ウイリー症候群の子どもに効果があることは、他の子どもや困難を抱えている大人にも役立つものではないか。逆に、他の人に効果的なことはプラダー・ウイリー症候群の子どもに役立つ。それが人間同士の関係というものではないか。

初めに述べましたが、プラダー・ウイリー症候群ならではのこともあるでしょう。でも、それは比率で言うと多くても何パーセントかです。ほとんどは人間として共通しているし、また違っているように見えるところもより分りやすくあらわれていると考えるから、お互いに学びあえるわけです。専門家にはその視点がないんですね。


Wさん:いま、たっちゃんが言った特別ではなく共通しているということを、先日、Hさんと一緒にプラダー・ウイリー症候群の研修会に参加したときに医者に聞いたんです。でも、日常の生活面での困難について聞いても、「医学的なことは言えるんだけども・・・」といった感じでした。子どもが暴れたときの「薬の効果」とかについては言えても、プラダー・ウイリー症候群の子どもを一人の人間として大切にするという考え方は否定はしないんでしょうけど、よくわからないという感じなんでしょうね。医者はそういうことを考えないままに来ているのかな。だから、そういう人間的なところは親の会で学んでいくことが大事だと思います。


―――
今の医療の問題ですね。暴れるからといって薬で抑える。その子が人間として持っている気持ちや感情を無視してもなんとも思わない。人権というか人格権というか、「人間の尊厳」はみんな持っているでしょう。

辛さ大変さのちょっとしたあらわれでも「問題行動」だといって、治療や矯正の対象にしてしまう。その結果、「問題行動」がなくなるかというとそうではなく繰り返される。そして本人だけでなく親も家族みんなも、もっと大きな不安を抱えてしまう。

だから「問題行動」と言われることも、本当に問題行動なのか、根本から考え直してみるといいですね。見方を変えるとそんなに対処がむずかしくないと発見できると思います。



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