登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2011年9月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.180より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


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自分が自分の主人公! まっ先に幸せに!

2011年7月
例会報告(抄)



7月例会は初めに、5月15日の内沢達の講演記録 「自分が自分の主人公!まっ先に幸せになる!」のポイントを読みあわせました。「講演のときより分かりやすい!」との声も(大笑)。実績豊かに22年間も続けてきた鹿児島の親の会の教訓がいっぱいです。例会の交流も、「自分が自分の主人公!」がテーマでした。

Aさんは「今までは娘のことばかりだったけど、親の会に来るとみなさんが生き生きとしていて、私も自分を大切にしようと考えるようになった」「すると毎日のちょっとしたことが嬉しくなってきた」と話しました。
ジュンさんも、「自分のことは二の次で、子どものため、家族のためにと考えてきたけど、親の会で学ぶなかで、自分が自分の主人公! 私が幸せでないとダメなんだということがわかってきた」と言います。
ジュンさんの話をきっかけに、「介護」のことも話題になりました。

どんなことでも自分がかかわる大事なことについては、事前に予想を立ててやってみてはどうでしょうか。事後が予想通りであれば、その予想の元になった考え方に自信を持っていいんです。でも、事後が思わしくないようなら、事前の自分の考え方には無理があったということですから、次からは予想を変更したほうがいいということですね。





目次

1 「自分が主人公」は私の一番のテーマ   Aさん

2 まっ先に「私が」幸せになる(その1)   ジュンさん

3 他人の評価の影におびえない   KKさん

4 自分を一番大切に   Wさん

5 抱きしめたくなるほど可愛い    森田淳子さん、重則さん





「自分が主人公」は私の一番のテーマ   Aさん



「自分が自分の主人公」というのは、私の一番のテーマだなと思っています。
娘が鹿児島の病院に転院して距離的に離れたこともあって(―――今までは自宅のある宮崎県だったのね)、はい、今まで1年余りは娘のために何とかしなくてはとそればかりで過ごしてきたんですけど、距離的に離れたし、娘が落ち着いたこともあって、やっと自分のことを考える時間ができて、今までは娘のことばかりで逆に何も見えていなかったなあと分かってきました。

親の会に来ると皆さんがすごく生き生きとされて、英会話やお花を育てたりとかいろいろされているので、すごいなあ、自分もやってみたいなあと、不安はあるんですけど、不安は不安として受入れて、自分も楽しんでいいんじゃないかなと最近思えるようになりました。


―――毎週土曜日にご家族で病院にいらしているんですね(はい)。娘さんは喜んでいらっしゃいますか。


顔を見ると喜びますけど、まだ自分から積極的な気持ちにはなっていないみたいです。でも、それは娘の問題かなと思えるようになってきました。


―――そう思えるようになって、とてもよかったですね。娘さんの人生は娘さんが作っていく、親はただ子どもを無条件に愛すればいいという大事なお話しですね。入院していることでご心配なことはないですか。


それはありません。すごく信頼しています。


―――そう思えるようになって本当によかったです。あなたの安心がいっぱい増えてきましたね。娘さんは車椅子にはまだ座れないんですか。


先週ぐらいから、自分から乗ることはないんですが、乗せてもらって院内を散歩したりして体力はちょっとついてきているみたいです。栄養は胃ろうで摂っていますが、体力はちょっとずつ回復してきているみたいです。

私自身を大切にしようと考えるようになってくると、毎日のちょっとしたことが嬉しくなってきました。朝、散歩しているとお花が咲いていたり、雲の景色がきれいだったりして、いろんなことに嬉しくなったりするようになりました。

今までは私の気持ちは娘のことばかりだったのですが、自分が嬉しかったりすることが増えてきて、そういう点では、ちょっとずつ親の会のわくわくを分けてもらっているかなあという気がしています。

不安は不安のままで共存していくというか、それはそれとしてやっていこうかなと思えるようになってきました。(―――会報も参考にしてくださっているのね)はい。気持ちが揺れることもあるんですけど、揺れることもあっていいのかなと認められるようになってきたんですね。


―――親が何とかしないといけないと思っているときは、本当に不安がどんどん先行して大変お辛かったと思います。7,8年親の会と離れていて、偶然木藤さんに電話をしてみようかなと思われて、そこから良い方向に展開していったんですね。

そうやってご自分のことを考えられるようになって、道に咲いているお花にも目が行くようになったあなたの様子は必ず娘さんに伝わっていきます。

「私のせいで」と自分を責めていたであろう娘さんが、お母さんの明るい笑顔を見てどんなに嬉しいでしょうか。自分を大切にして生きることによって、娘さんもちゃんと自分の人生を生きていく自信が生まれていくんですね。







まっ先に「私が」幸せになる(その1)    ジュンさん



私も以前は自分を犠牲にするところがありました。
自分のことは二の次で、コンビニ経営をしながらヘルパーの仕事もして、子どものため、家のために働くことが自分の幸せだとずっと思っていました。

親の会で学ぶ中で、「自分が自分の主人公」、私が幸せでないとダメなんだということが改めて分かりました。

夫の父親を家に引き取って面倒を看ましたが、その時も奉仕の気持ちが強かったと今思います。私の母や周りからはいろいろ言われてもやってよかったと思っていました。

でも、義父が入院してみると、子ども達と接する楽しい時間ができたり、自分の時間ができたりして、本当の私の気持ち、幸せは今のほうがいいとわかりました。義父には悪いけど、家で看ていると自分のしたいこともできず、義父中心になっていて、どこにも行けず、何もできなかったです。今は自分の時間ができて幸せに暮らしています。


―――あなたは夫と別居する以前は、夫の言うことをよく聞いて、お家の中もきれいにして食事の支度をするという考え方だったのね(そうです)。
夫を立てるというか、あまり自分を出さない。でも自分を大切にしようと、まず夫と別居して自分を大切にするようになってきたのね。


はい。学校に行かない子ども達を見て、夫から「自分たちでなくて、他の家庭で育ったらこの子らは普通に学校に行ったんではないか」と言われたんです。
直接お前の育て方が悪いということは言わないけど、遠まわしに母親の私の育て方が悪いと言っているんですよ。私も至らないところがあるので、確かに他人に預けるといいのかなと、考え方が洗脳されたと言うか。(笑)


―――とても素直だったんですね(笑)。そういうふうに思ってしまって、他人に預けた方がよかったと思うぐらい自分を責めていたのね。


そうですね。あの時はとても辛かったです。自分よりも周りのことをちゃんとしないと、と思っていました。学校に行くのが当たり前と思っていたので、何とかして子どもを学校に行かせようとしていました。だけどこの会に毎回参加するようになって、だんだん考え方が変ってきて、今では180度も変りました。


―――別居中の夫の父親を看たいから引き取って、あなたのお母さんに反対されながらも、私は看たいからと言ったときも奉仕の気持ちだったの?


そうですね。義父は長い間ひとりで暮らしていたので、残りの人生を家で看てあげたいという気持ちでした。でも私が手を貸すと店の方が回らなくなって。

今、毎日病院に行って顔を見ると、口では言わないけれど、もの悲しげな目で見るので、それは辛いですね。黙って見ているしかなくて、心の中ではごめんねと思っているんだけど、もう家では看られませんから。

私の母がこれ以上抱えるとあなたが壊れてしまうからとすごく言うんです(笑)。
木藤さんにもメールしたけど、私は自分の母がそうなったら100%看ようと思っているんですが、夫の親は看ないで自分の親だけそうするのはずるいのでしょうか?


―――そう言って自分を責めちゃうのよね。建て前ではなく、自分の素直な気持ちを受け止めてあげましょうね。夫の親は夫が看て、妻の親は妻が看る。それが原則です。それでなければとても不安になりますね。あなたの夫が自宅で看てデイサービスにしたいと言ったこともあったのね。


はい。私はもう施設に預けようと思っていたら、夫が「家で看られない?」と突然言ったから、あれっと思って、「俺も協力するから」と言うけど、私も仕事をしているし、帰りは遅いし、義父自身も「胃ろう」という状態では私が何もかも犠牲にしないとできないので、「無理だ」と思っていたので、木藤さんに電話してはっきりと「それが無理だよ」と言ってもらいたかったのかもしれません。

義父が家にいると介護の人たちの出入りもあり、他人が入ると子ども達も2階に上がってしまうし、母も気にし、家の中がぎくしゃくしていました。

今はみんな自由にのびのび楽しくしています。息子などは自分で髪を切って自転車を通販で買って夜中に乗り回しています。下のふたりは18歳と,15歳なのに、私にすごくまとわりつきます。「お母さんも録画のTVや本を見て、見て」「あれもこれもと」と小さい子どもみたいです。(―――幸せね)
今の幸せが義父が家に来ることで、なくなるのは私はいやだなと思います。

夫も県外の兄弟からどうするんだと、電話でいろいろ言われたみたいです。夫は「妻しだい」と言って、私が「できない」と言ったことを伝えたら、誰も責めなかったと、それを気にしていた夫は「よかった」と言いました。「もう決めたことだから預ける」と言ったら誰も何も言わなかったと。でも、もう病院に行くとあの悲しげな目が辛いけど、「ごめんね」という感じです。



木藤厚子(世話人):ジュンさんから「実母は看たいが、舅は看ない、それはずるいのでしょうか」と聞かれて、「全然ずるくなんてありませんよ。間違ってもいません」と答えました。それよりも夫に「看てくれないか」と言われて、「NO!」と自分の正直な気持ちを言えたことが、自分を大事にしていることで、とてもよかったね、と言いました。
全介助が必要なおじいちゃんを家で看ること自体、無理なことですし、それが全部ジュンさんにかかってくる。前回の体験からもうそんなことはできないし、家族も仕事も犠牲にできないとご自分の本当の気持ちに気がついてよかったですね。



私も今、姑が入院していますので介護の生活を送っています。
病院に行くたびに姑は「帰りたい、早くここを出たい」「いつまで私はここにいないといけないの」と言いますが、家で看ることはできません。一度外泊したことがあったんですが、夜中も1,2時間おきにトイレに起きて車イスで連れて行かないといけないし、昼間も私がいないと不安でさがして大変でした。1日中ぴったりと付添っていないといけませんし、介護倒れになってしまいます。


やっぱりそれは家庭ではできないことで、親の会で言っている「介護は公共で、愛情は家族で」というように、沢山の人の力を借りないといけません。私もその分、病院に行く時は母の好物を持って行ったり、気分転換に外を散歩したり、ゆっくりと話し相手になったりすることができます。

姑の話も自分の生活を大事にできているから、「そーなの、そーなの」と落ちついて対応できているんだと思います。






他人の評価の影におびえない   KKさん



私は近くに住んでいた夫の両親を夜泊り込んで9年、あとの6年は夫が倒れ入院したのをキッカケにして舅を近所の老健施設にお願いし、週に3,4日通う日々で、通算15年間の長い介護生活でした。姑は10数年間入退院を繰り返して、末期がんで余命6ヶ月と宣告され、在宅で3年8ヶ月介護し看取りました。

舅は痴呆になり人格が変わり、徘徊、妄想、昼夜逆転、暴言暴力、色ボケ等などと毎日毎日の問題行動に私も夫も家政婦さんもへとへとの状態でした。

医師も強く入院を勧めてくれたけど、私は「K家の長男の嫁」という立場に縛られて世間体を気にして、なかなか決断が出来ませんでした。

当時、私は実父と舅の介護をしつつ、親の会のスタッフと婦人団体の活動をしていました。あれもこれも全力投球し、青息吐息の状態で、自分が頑張れば自分さえ我慢すればうまくいくと思い込み、毎日毎日が綱渡りの日々でした。

今思い返すとしょっちゅうぎっくり腰を起こし、ストレスで体調も崩し、ふたりの娘にも留守番ばかりさせて、母親らしいことはあまりやっていませんでした。当時「お母さんは私たちよりお祖父ちゃん、お祖母ちゃんが大事なんだね」と言われショックでした。それでも当時の私は、舅を老健施設に入所させたことをすまないと思い自分を責めました。

その頃達さんの「たのしい授業」を受ける中で、特に心に残った格言がふたつあります。一つは「他人の評価の影におびえない」です。世間体や嫁という立場を気にして、自分を大切にしていなかったのではないかと、気付いたのです。

二つ目は「いい加減は良い加減」です。鹿児島弁では「てげてげ」(いい加減の意味)という言葉は、それまであまりいい印象を持っていませんでした。

いい加減でなく、精一杯、最後まで頑張りぬく生きかたこそ価値ある生きかたと思い込んでいたのです。独りよがりの自分を苦しめ、追い込む考え方だったのに・・・。今ならはっきりわかります。

私の場合、夫と通いの家政婦さんと3人で舅の介護にあたったけど、それでも長距離通勤の夫が倒れ入院し、私も家政婦さんも通院、治療しながらの介護で「お義父さんより私たちのお葬式が先かもね」と話すぐらい大変でした。今もその影響で持病を持ち、私と夫は毎月病院へ通っています。

ジュンさんや他の皆さんもそんな体験はしてほしくありません。ご自分を大切にされて「ドキドキ、ワクワク」をたくさん見つけて、「自分が自分の主人公」として生きていってください。






自分を一番大切に  Wさん



私は、同居した姑が寝たきりでした。姑はまだ51歳でした。結婚当初から親と同居であっても、姑の介護は夫の妹がやっていたので、大変さがわからなかったのです。義妹はすぐ結婚してしまったので、私はその後7年間姑の在宅介護が始まりました。

まわりからは反対され、友人たちからも「何してるの」と言われ続け、後年、朋子さんに出会ってからはなおさらです。その頃は私しかいないという気持ちが強かったので、自分が自己犠牲になっても、と若さだけで乗り切ってきたんですが、ただあの時は、寝たきり老人を抱えての知恵もなく、公的サービスもなく、介護者も介護される方も苦労の連続でした。

けな気に「二部式の着物」や「洗髪の小物」を工夫したり無我夢中でした。まだ姑も寝たきりだったけれど元気だったので、3年間フルタイマーで働いたこともありました。

7年目に姑を病院で看てもらうことにし、その後子育てを始めました。姑は私の元へ帰りたかったのでしょうが、病院通いをしても私は2度と姑を呼び戻しませんでした。姑は入院8年で亡くなりました。

私へ感謝しながら亡くなった姑の介護話は、美談になりそうですが、どろどろとした世間の嫁姑の話はたくさん体験したし、朋子さんにも散々しゃべりました。

親の会で、夫の親は夫が看る、妻の親は妻が看ると言われていますが、結婚した38年前にはそんな考えは全くなくて、その後の15年間はやはり辛い思いをしました。

姑が亡くなってから10年くらいは良かったのですが、今度は実家との問題が出て、一番下の弟が、両親と障害を持つ兄と住んで、実家を見ていましたが、その弟が出社拒否の後、退職してしまいました。職場のいじめで、精神的に追い込まれ、その辛さを酒とパチンコに費やし、荒れて実家の家計が窮屈になっていきました。

でも、いろいろあっても弟がいたので、病院や買い物や親の介護はやってくれて助かっていたのです。3年前にその弟が癌で亡くなりました。

実家には現在89歳の両親と60歳の障害のある弟がのこっています。姑を看取ったとき、実家は私が看ます、と言う意気込みでしたが、私も癌体験者となり、人生の先のことはまったく分からないということですね。

幸い実家のことは公的サービスの手続きをし、私は私の治療に専念することができます。「介護は公的サービスで、愛情は家族で」です。

自分を一番に大切にし、まっ先に幸せになる。私の課題でもあります。私は無理をすることに慣れてすぎていたのでしょうか、頑張ることが好きだったんでしょうか、反問しながら、61歳で私も癌体験者となり、今からでも自分を大事にして幸せを大切にしていこうと、命のあることに感謝する毎日です。

親の会でいろんな話が出てきますが、私は命さえあれば大丈夫ですよ、といつも思っています。みなさん、いつも支えてくださってありがとうございます。


―――みなさんのお話で大事な教訓は、自分の気持ちをまっ先に大切にするということですね。

世間はどう思うだろうか、嫁の立場ではどうだろうか、誰かがこう思うんじゃないか、お祖父ちゃんは、お祖母ちゃんは、夫は、と周りのことを優先して考えてしまうクセがついてしまっているのね。すると自分の気持ちはどうなんだろうかと、わからなくなってしまう。

まさに「他人の評価の影」ですね。そしてそうできない自分を否定して追い詰めていくんですね。

今たまたま介護のことが話題ですが、介護が自分を大切にするテーマで一番分かりやすいですね。自分の人生を生きて行く中で「自分を大切に」は全てを考える大事な前提になります。そこから目をそらそうとする条件がいろいろあるから、その条件に自分が縛られてきたんじゃないかということに気がついてほしい。






抱きしめたくなるほど可愛い    森田淳子さん、重則さん



―――森田さん良かったですねぇ。念願の礼文島へ行けましたね。


淳子さん:礼文島へはいつか行きたいと思っていました。3泊4日の旅で、前日までは天候が悪かったらしいですが、私達が着いた日からお天気が回復して、雨という予想もはずれてずっと良いお天気でした(―――神様からのプレゼントですね)。

昨年屋久島へ行った時、礼文へ行くのはまだまだ先と思っていたんですが、行ける時に行こう、と思い切って行ってよかったです。


―――親の会では、以前、ワンワン泣いたりしたこともありましたね。


恥ずかしいです(笑)。私もあの頃、mihoさんの思いとはちがうかもしれないけど、自分の思っていることが誰にも伝わらないみたいに思って、すごく孤独な感じがしていました。
夫がよく家のことをしてくれるけど、そういうことじゃないんだという思いがあって、自分の心の奥深くでは、私が不安な時に夫がいろいろしてくれるとますますその不安が深くなっていくというのがあって……。ここで言われても、言っていることが何なのかがわからなくて、そうなるともう自分が信じられなくて、何をしてもダメなんです。


―――人間は、みんな、辛い時は辛いんです。うれしい時はうれしいし、同じと考えたらいいんですね。


旅行から帰ってきたら、26歳の娘の反乱があり大変な状態が待っていました(笑)。
娘は「旅行は楽しんで行ってきてね」と言いつつも、あまり表情もなく眠れないと訴えていたんです。私達の旅行中もあまり食事をとってなかったみたいで少し痩せていました。帰ってきた翌日に突然、娘はお皿をバーンと割りました。

ワンワン泣きながら「私は以前お母さんを責めたかったのにお兄ちゃんのことで一生懸命で、私はお母さんたちを責めることはできなかった」「私のことはずっと見てなかった」と言ったので、私も頭にきて「赤ちゃんの時からずっとみていたでしょう!」と言いました(笑)。

破片が粉々で、娘は後で自分で片付けるつもりだったようでしたが、泣きながら2階へ行ったので、危なかったので私が片付けました。それで不安にはならなかったけど、内沢さんの声を聞こうと思って、内沢さんにこんなことがあったと電話をして、夫とふたりで赴任先の鹿屋へ帰りました。そして夫に、「やっぱりふたりで海外旅行にいかないとダメなんだよ」(笑)、「海外旅行へ行かないと、やっぱりなかなか卒業できないんだね」と言って……。(笑)

息子の時みたいには、私は不安にならなくて、今までの生活を普通にしていくことかなと思いました。いい気持ちはしなかったけど、動揺はしませんでした。

娘は26歳の誕生日のあと、鹿屋へ電話がありました。「私は十分休んだし、集金の人や配達の人とも話せるし、ごみ出しにいったら、近所の人ともふつうに話せるので、私は大丈夫、もう仕事に行ける」と言って、就職情報誌を買って来ました。そして「世間では30歳までにきちんとしたところに就職しないとダメだ、と言ってるけど大丈夫だよね。まずアルバイトからだよね」と言っていました。

「どこへ行こうかな」と私達に話してきましたが、私は「する時は自分で黙ってする」ということを、息子の体験を通してわかっていましたから、「まだだよね」と夫と話していました。そうしたら娘も会報を読んでいて、「お母さん、黙ってしないといけないんだね」と言って(大笑)。

「いいよね、お母さんに相談しながらしても」と言ったので、一歩踏み出すのにはまだ不安があるんだろうな、と思っています。

内沢さんに「お皿を割って、スッキリしたんじゃないの」と言われたんですが、本当に次の日にはもうケロッとしていました。娘が「ちゃんと料理も作らないし、あるものを食べる」と言ったので「いいんじゃない」と言いました。娘は息子のご飯を作ったり、洗濯もしてくれていたんですが、今はしてくれないので息子の機嫌が悪くて悪くて・・・、「親の育て方が悪い」と私達に言いました(大笑)。「あいつは世間を知らない。お父さんも公務員だから民間企業の厳しさを知らないんだ」と言って(大笑)。

息子は、仕事も大変だと思います。真面目に検定試験を受けたり、他の観光地を調べたりよくやっていると思います。


―――娘さんは今どうですか。私は食器を割って良かったなぁとワクワクしています。今までお利口さんだったからね。


重則さん:妻から聞いた話ですが、娘は皿を割ってすごくスッキリしたそうです。「お母さんもやってみたら」と言われたそうです。(大笑)

淳子さん:1年間お兄ちゃんとの2人暮らしで、家事一切を全部やって疲れみたいなものも出てきたのかもしれません。

―――それもお母さんの目の前でやるんだものね。誰もいないところでやっても、
迫力がない・・・。


重則さん:私は2階にいたのですが、何か物が落ちたのかなぐらいで降りてみたら、皿が割れて娘がワンワン泣いていたんです。息子の時もそういう事があったので、「あっ、ついにきたかな」と思いました。娘が妻にいろいろ言っていたので、やっと自分の気持ちを出せたんだなぁ、かわいいなぁと思って、抱きしめようかと思ったんですが、抱きしめるとたたかれるかなぁと思って……(笑)

内沢さんに電話したのは、不安からでなく、やろうとしていることの再確認をするためでした。


―――かわいいなぁと思えたら大丈夫ですよ。娘さんはちゃんと自分で考えて、自分で人生を歩いていきますから。よかったですねぇ。いいことが続きましたね。すごくわかりやすいですね。




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最終更新: 2011.11.15
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