登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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 子どもが登校拒否、家庭内暴力になった時、家族をさけるように生きていた父親。

 しかし今、その子どもから「家族」というかけがえのない存在を教えてもらったという森田さんの体験談です。

 後半は妻のjinkoさんの掲示板からの抜粋記事も紹介しています。
 

 1.家族が私を救ってくれた 森田重則

 2.感謝の気持ちでいっぱい(jinkoさん)

 3.
不安なときは動かない(jinkoさん)

 4.
自分が好きなの(jinkoさん)




「家族が私を救ってくれた」
  森田重則

森田さん夫婦の写真
↑8/11夏合宿現地実行委員会打ち上げ会の時より。左が重則さん。右がJinkoさん。



 先ずは家族を紹介します。妻4?歳,息子19歳,娘16歳,犬(タロー)13歳,私49歳です。家族は指宿に,私は鹿屋に住んでいます。



 息子はいじめが原因で中1から,娘はそんな息子をみて,また,自分で体験した中学校を自分には不必要と見限り中2から登校拒否をはじめました。



 今は,娘は我が家でマイペースの生活をしていますが,息子はまだ自分を認めきらず,このままの自分では駄目だと責めているところがあります。



 息子の中学校入学と同時期に,私は徳之島に転勤となり,単身生活をはじめました。
まもなく,息子の登校拒否が始まりました。



 その頃の私は学校を休むことは認めていたつもりでしたが,家にばかりいることは良くないと考え,買い物や旅行など,外に連れ出すことをずいぶんやりました。



 私は子供達の学校の成績には関心がなく,将来は自分達の好きな道を歩めばいいと思っていました。
 しかし,卒業後は,せめて高校だけはとの思いから通信制高校に入学させたりしました。
通信に行かせたことが息子が強い自己否定をする原因となってしまったのですが。
 


 今考えると息子には本当につらい思いをさせてしまったと反省しています。
子供は家でゆっくりするのが一番必要だったのですね。



 このことで,後に子供から責められるのですが。
とにかく,子供のことは妻まかせの無責任な父親でした。



 徳之島には5年間居ましたが,向こうでの生活が長くなるほど,家族と私の関係はひどいものになっていきました。
 指宿に戻るたびに,自分の居場所がないと感じ,家族との距離をとるようになりました。



 出張等でたまに帰っても居るのがつらい,落ち着く場所がない,徳之島のほうが楽だと考えたのです。
 妻に電話するのも億劫で,電話口でも冷たい態度をとる始末。



 子供のことで一人悩み苦しみ続ける妻には本当にひどい夫だったと思います。
つらく,悲しい思いをさせ続けました。



 徳之島での私は家族から逃避しようと,週の半分以上は飲み屋通いで午前様。
 20年近くやめていたタバコも吸い始め,睡眠薬や精神安定剤のお世話になり,その結果,お決まりの体調不良。
高血圧,糖尿病(予備軍),高尿酸で病院通い,今も大きいつけを払い続けています。



 その頃,指宿では息子が強い自己否定をはじめ,妻を責め,暴力を振るうようになりました。
妻は大きな不安を一人で抱えていたのです。
 家族を顧みない夫。
夫に訴えるも耳を貸さない。
別居・離婚も考えたようです。



 そうこうするうち,鹿屋へ転勤となり,週末だけを家族とすごす生活が始まりました。
自宅から通勤できる職場にと異動希望は出していたのですが,正直言って,鹿屋でほっとした思いでした。



  妻から「指宿に帰ってきたら,お父さんの出番だからね。後はまかせたよ。」と申し渡されていましたので,
子供とどう対応すればいいのか判らない身には指宿に戻ることへの不安,子供と接することへの不安が渦巻いていましたから。



 そして,週末ごとに帰るたびに,今まで見ようともしなかった家族の生の生活,
息子が自己否定し,妻を責め,荒れるのを目の当たりに見ることになります。



 そのことに対し何も出来ない,どうしていいのか判らない自分。
 妻の薦めで,気が進まないながらも,でも,藁をもつかむ思いで親の会へ通い出したわけです。
 東京での全国合宿にも参加しました。



 指宿に戻っても最初の頃は,息子は私には何も言いませんでした。
 でも,そのうちに「お父さんが自分に・・・・をしたから,自分は外に出られなくなったのだ,どうしてくれる。
 元気な自分を返してくれ。」などと責め出し,暴力も振るうようになりました。



 それに対し,何も出来ない私。
 だんだんと落ち込み,一睡もせずに鹿屋に戻ったこともありました。
 ひどくなると,息子と同じように自己否定しだし,自分を殴ったり,壁に頭をぶつけたり。



 指宿に帰る海沿いの道で,このまま自動車ごと飛び込んだら楽だろうなと考えたり。
 そんな私を妻や娘が支えてくれました。
 今思うと笑い話ですが,不安だらけの揺れ動いた1年でした。
 不安に押しつぶされ,内沢さんのお宅を何度たずねたでしょうか。



 親の会では,子供を変えるのではない,親が変わらないといけない。
 子供を特別視してはいけない。
 ガラス細工のように扱ってはいけない。
 いいなりになってはいけないと言われました。



 そして,子供に悪いことをしたと思うなら,謝ってみてはと。
 でも,最初は,何を言ってるのだろう。
 次に,言ってることは判るのだけど,なかなかね。
 やっとこのごろは,そうだよねと頷けるようになりました。



 本当に息子とは言葉に言い表せない程色々なことがありました。
 でも,この頃はお互いに話かけれるようになったし,落ち着いた関係です。
 親が変わると子供も変わる。



 私が変わったのかどうか,自分でははっきりしませんが,でも,本当にそうだよねと納得するこの頃です。
子供達とのことはまだまだこれから。夫婦一緒に子供達を守って行こうと思っています。
 


 不登校新聞のメーリングリストで,奈良県の母親から「どうしてあなたはそんなに変わったのですか」と尋ねられました。
 どうしてなのだろう。



 徳之島の時と同じように逃げる生活も送れたかもしれません。
 でも,毎週帰るなかで,子供や妻の状況を目の当たりに見て,とてもじゃないが出来なかった。
 どうしても私も関わらざるを得なかったというのも理由です。



 そして,もう一つ,徳之島でよく思い出していた光景があります。
 それは最初に徳之島へ家族と転勤したときのことです。



 実は私は徳之島に二度転勤しています。
 一回目は長男が1歳になる前から6年間,家族で赴任しました。
 長女は徳之島の生まれです。



 仕事が終わった後,小さかった子供達と近くの小学校に遊びに行くのが日課,
長男は三輪車の後ろにダンプカー(長さ60cmほど)をひもで引っ張り,学校の砂場の砂を家まで運ぶ。
 そして,私が長女の手を引きながら,その三輪車を引っ張る。
 家に帰ると妻が食事の支度をしながら待っている。
 そして,そのダンプカーが我が家の庭に今でもあるのです。



 これらのことを思うと家族と離れるなんて出来ませんでした。
家族が私を引き戻してくれたのです。
 救ってくれたのです。
 本当に妻や子供達にありがとうと言いたい。
 今は本当に家族であって良かったと心から思っています。



 最後に,親の会では母親の参加が多く,父親は少ないですね。
母親が一人で子供と向き合うより両親一緒に向き合った方が子供は大きな安心が得られるのではないでしょうか。



 また,母親も一人で悩まなくてすむのではないでしょうか。
5年も家族を見捨てた私がこういうことをいえる立場ではありませんが,これが一年間揺れ動いて得た私の実感です。



お父さん,あなたもお母さんと一緒に子供達の味方になりませんか。



PS
娘がこれを読んで,「私のことがあまり書いてないね」と申しました。
 このことは私が息子のことを中心に考えているということでしょう。



 娘は落ち着いた生活をしていますが,それなりに不安を抱えています。
娘が私に遠慮なく話ができるように,私が早く変わらないといけないですね。



 また,「さらっと,書いてあるよね。本当はもっと泥沼だったよ。これで終わりではないんだよ。
まだまだ,これからだよ」と申しておりました。
 肝に銘じておきます。


 

2002年06月19日
jinnko(森田淳子さん)
感謝の気持ちでいっぱい



 今月の親の会には,私の両親も1時間ほど参加しました。
夫の体験発表があったからではなく,仕入れに行きたいから(指宿で駄菓子屋をやっています)のせていってくれとのこと。



 6時に鴨池公民館で待ち合わせの約束で,早くきたら親の会の会場にもおいでよと言ったのですが,4時には会場に本当にきたのでびっくりしました。



 夫の体験発表のコピーを読んで泣いたと,帰りの車の中で母が言いました。
辛かったんだねとも。
夫がすぐに,辛かったのは子供達ですといいました。



 私の両親は歩いて10分のところに住んでいますが,一年ほど私の息子とは会っていません。
私達の家にも来ないでくれと言ってあります。



 暗くなってから,私の自転車のかごに野菜や頂き物が,自分達は食べないでいれてあったりします。
 学校に行かなくなった孫たちを責めたり非難することはなく,世間からかばってくれたりします。
それでも不安はあって,その不安を私が受け止めきれず,母を傷つけてしまったりしました。



親の会で夫の体験をきいて,涙がでたとたくさんの人に言われたよと娘にいうと,どうしてだろうねと言います。
 もっともっといろんなことがあったよね。



 そうなんだ。
 夫がいろいろとありましたと書いてあったけど,そのいろいろが分かってくれたんだよね。



 がけの上の細い道をひとりぼっちで歩いてきたと思っていたけど,振り返ってみれば親の会のみんなに見守られ,
父や母に助けられ,夫もすぐそばにいたのにお互いにみえなかったのだと。



 今回は偶然にも父と母にも私たちのことがわかってもらえて。
 私も優しい気持ちになれました。



 例会の時は何がなんだかわからない状態でしたが,みなさん,ありがとう。
今,夫と2人でやっと初めの一歩です。
これからも,よろしくお願いします。


 

2002年07月05日
jinko
不安な時は動かない



 ここ,2ヶ月ほど,息子とめがねを作りに行く,行かないでもめていました。
1年前に作っためがねが合わなくなったというのです。
ゲームをするのに見えにくくて,楽しめないと。



 半年前の私なら,すぐに一緒に作りに行ったかもしれません。
でも,ちょっと待てよ。
息子は1年近く外に出ていない。出たくない何かがあるんだ。
めがねを作りに行きたいといいながら,不安な様子もある。



 見えないんだったら,前で見ればと言えば,小さい頃からTVを前で見るなと言っただろうと。
学校の視力検査や親のそんなに前でみたら目が悪くなるよという言葉で,視力が悪いということが劣ったことのように思えると言う。



 ゲームも完全な視力でしないと,損をしているようだというのです。
そして,毎日していたゲームもしなくなりました。


 今は少しでも不安がある時は無理なことはしない。
人間どこか不完全なところがあってもいいんだよと言っても,自分は気になるタイプなんだから仕方がないんだと言う。70%の視力で楽しんだらと言ったら,ゲームもしたことがないくせにわかったようなことを言うなと言われました。



 とにかく,必要ないから私は行かない。タクシーくらいはよんでくれと言われ,それも同じ事だからよばないと言いました。
今まで,俺が行きたくない時は無理に連れて行って,今度はおれが行きたいのに,連れて行かないとは。どこまで,俺の人生の邪魔をすれば気が済むのかと怒りました。



 親の会で言われる,子どもの前に立たないというのは,子どもがあせって何かしないといけないと動き始めたとき,親は手伝ってはいけないといいうことだと考えていました。



 でも,日常生活のいろんな場面で子どもは自己否定をするようなことがあったんですね。服が欲しいといえば,買いに行こうと誘い,ミニカーが欲しいといえば,遠くまで連れて行く。
その時だけでも,子どもの笑顔が見られたら,私は満足。子どもは無理をしているので,自己否定を重ねていく。愚かな親です。



 どんなことがあっても何もしないと覚悟を決めた頃,息子は突然,自分でタクシーをよび,ひとりでめがね作りに行ってしまいました。
ひとりで出かけるとは思ってもみなかったので,私は動揺しました。



 今のままのあなたでいいんだよという私の気持ちは息子には届きませんでした。
でも,不安な時には動かない,無理をしないという私の考えは少しは伝わったのだろうか。



 親の会で何回も聞いた言葉,親ができることはおいしいご飯を作ること。どんなことがあっても動じない。辛いとのたうち回る子どもを黙って見ている。それが子どものすべてを受け入れること。



 何年も親の会に通いながら,実際にその場になってみないと,わからない。自分のものとして,確信をもつには時間がかかりすぎて,情けないなと思いました。



 でも,無理をしないということは,親としてだけではなく,人間としての私にも大事なことではないかと思いました。娘として,嫁として,姉としてつい,頑張ることも多いです。自分自身が無理をせず,今を楽しまないと説得力ないなと。
今回,いろいろと考えました。


 

2002年08月17日
jinko
自分が好きなの


 夏合宿,打ち上げ会の楽しい思い出を娘に話していたときのこと。
17才の娘が突然,お母さん,私を一生,食べさせてねと言ったのです。私はどぎまぎして,できるうちはね,なんて言いました。



 娘は恥ずかしそうにちょっと笑って,「わたしね,自分が好きなの。
だから,自分をいじめたくない。ひとには厳しく,自分は甘やかしてあげたいの。



 不登校したときから,人と違う道だから,大変なことはしたくないし,今目指すものもない。だから,ゲームにはまっていたいのよね。」



 中2から学校に行かなくなった娘。
無理しなくていいからね,焦らないでね,お父さんが食べさせてくれるんだからねと,いつも言っていた私。
 なのに,胸の中がざわざわとゆれました。本当にこれでいいのかしら。



 愛美ちゃんの生きているだけでいいって抱きしめてという言葉にうなずき,良治さんが愛美ちゃんに一生,過食だったらどうすると聞かれ,即答できなかったという話に,どうしてと思ったのに。



 娘と同じことを他の子どもがいったら素晴らしいと思うはずなのに,自分の子だと不安になる。わが家には強い自己否定で苦しんでいる息子がいるのに。



恥ずかしい話ですが,不登校や閉じこもりを仕方なく認めている部分があるんだなと,思います。



 娘がその話をしてから3日たって。
時々,娘の笑顔と一緒に自分が好きなのという言葉がふわっと浮かんできます。
私まで幸せになるその言葉。



 誰からなんと言われようと,この娘だけには軽蔑されたくないと思ってしまいます。
子どもを育てているつもりが,子どもに育てられているんですね。




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Last updated: 2003.8.26
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