登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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たのしいことがいちばん!

2023/11/28(11/3例会資料一部修正)

内沢 達


僕らの会のいいところの一つは、相互に刺激的なところだと思う。僕ら一人ひとりに人生があり、他の人のこれまでといまの話から刺激を受け、学びあっている。


10月例会でユウさんは、なんと過激にも「いま仕事しているヒマがない」と言われた。もちろん、それはユウさんがいま現在働いていないということではない。11/3霧島の山歩きのとき聞いてみた。年休をいっぱいにはとっているが、それを超えて仕事を休んでいるわけではない。有休を少ししかとらずに(ほとんど捨てて)、いま自分がしたいことをせずに我慢してまで働く、そんなヒマは自分にはない、そうする気持ちは毛頭ないとおっしゃったのだ。息子さんが不登校をしてくれたおかげで会との出会いもあり、いまユウさんはトモミさんといっしょに新たなたのしい人生を歩み始めていると思う。お二人の話の続きを聞かせてもらうのが楽しみだ。



9月例会で、僕はトモちゃんに促されて、絵本作家・五味太郎さんの『勉強しなければだいじょうぶ』(2010年・朝日新聞出版、改訂版・2016年・集文社)を少し紹介した。この本のタイトルはまちがいではない。「勉強したら」ではなく、「勉強しなければ」だいじょうぶなのだ。そんな馬鹿なことがあるかと思われるかもしれないが、ちょっとお付き合いいただきたい。五味さんは、「勉強」と「学習」は全然ちがうものだという。僕の理解や表現では、勉強とは、読んで字のごとくまさに「勉めを強いる」、他から強制される、やらされる、結果当人がしなければいけないと思い込んでしまうものだ。対して「学習」は自主的なもので、自分から進んで、自分の興味本位にたのしくおこなうものだ。五味さんが評価するのは後者だ。編集者からの「勉強する子でしたか?」の問いに、五味さんは「勉強してない。する必要を感じなかったし、他に忙しかったから勉強するヒマもなかった」と答えている。さらに「勉強なんかしている場合じゃない!」(「遊んでいる場合じゃない!」ではない)と思った瞬間から勉強人ではなく、人間本来の学習人としての資質を取り戻せるとも述べている。



ここで、少し僕自身の小さかった時のことを述べる。勉強の強制がほとんどなく、その点ではいい時代だった。そんな時(ところ)があったの!?と驚かれるかもしれないが、僕の小、中、高校時代、計12年間、宿題はなかった。だから、勉強をいやいやした・させられた覚えもない。幸せなことだ。ただ例外があった。普段は全くなかったのに、小学校の夏と冬の長期休業期間中(北海道は同じく各1ヶ月間の休み)に「夏休み帳」「冬休み帳」という、結構な分量の課題があった(春休みはそれがなく、一番解放的で好きだった)。休みに入って何日かは真面目にしたが、やがてしなくなり、休みも残り数日になってほとんどやり残していることに気づき、どうしようかと泣き出したり、あわてて友達のところに答えなどを写しに行ったりしたものだ。小5の時だったか、半分以上も手を付けずに提出しても何のおとがめもなかったのをいいことに、さらにしなくなった。8年前、おふくろが亡くなって実家を整理していると僕の小6の時の通知表が出てきた。その所見欄に担任が「計画性が欲しい」と記していた。僕の心当たりは、夏・冬休み期間中のいま述べた課題のことだった。



僕は子ども時代は従順だったし、一面的なものの見方・考え方しかできなかった。だから、計画性がないことはよくないことで、改めなければいけないと思っていた。ところが改まらなかった。僕は本当に計画性のない人間だ。「一年の計は元旦にあり」と教えられ、なるほどと思って毎年何かやろうとしたが、すべて言わば「三日坊主」で終わり、やり続けたものはなかった。それは、学生・大学院生になってからも同じだった。「今年こそは」と思ったがやっぱりだめだった。やがてそのやり方はそもそも自分には合わないと思うようにもなり、行き当たりばったりは僕の生き方になった。計画や準備、目標などを大切にすることを僕はもちろん否定しない。でも、そうでない行き当たりばったりも十分に価値あることだといつしか思うようになった。僕は山歩きが好きで、当たり前だが初めての山は周到に準備し、計画を立てて登る。下調べを十分にしてこそ安全も確保され、ゆとりのある山歩きを存分に楽しむことができる。10月末、東京の西部、多摩の丘陵地帯を歩いた。やはりそれなりの準備をして歩いたが、途中で、まったく計画になかったコースの変更を娘の提案でおこなった。里山・里地歩きだ。その結果、思わぬ藪漕ぎを余儀なくされ、トモちゃんは「大丈夫なの?ここから脱出できるの?」などと相当不安になったりもしたが、だからこそのアドベンチャー気分も味わうことができ、とてもたのしかった。どの道もいい道だ。「すべての道はローマに通ず」だ。


たのしいといえば、今夏の甲子園で、慶應義塾高校が107年ぶりの優勝を飾り、「エンジョイ・ベースボール」が脚光を浴びた。朝日新聞11/1付の記事(慶大准教授・都倉武之さん)によると、その言葉は1983年、40年前に、当時の慶大野球部監督だった前田祐吉さん(19302016。東京六大学リーグ優勝、計8回)が使い始め、以後、慶応野球の伝統を集約する言葉になっていったという。前田さんは、「坊主頭は高校生らしくない」「グランドへのお辞儀は虚礼である」「なぜ大声を出し続けるのか」などと、軍隊的な秩序を再現するかのような、日本に根強い精神野球を嫌い、米国の「ベースボール」に学んだ結果、「エンジョイ・ベースボール」に行きついたという。それが、慶応高校前監督・上田誠さん(著書『エンジョイ・ベースボール』2006年、NHK出版・生活人新書)や現監督・森林貴彦さん(著書『Thinking Baseball2020年、東洋館出版社)に受け継がれた。森林さんは、それは「ただ楽しく野球をしようということではなく、より高いレベルの野球を楽しもうという意味」だと述べる。それは、これまでのような「やらされる野球」から、自主的に「好きだからやる野球」に変わっていくことを意味する。そのあたりを森林さんは、受験勉強と自由研究のちがいにたとえている。「自由研究は自分の好み・興味からテーマを決めて探求するものなので、どんどんのめり込めて、身に付くものや得られるものが多い」。一方の受験勉強は「やらされている」「やらなければならない」という面が強くある。それでも身に付くものもあるため、そのすべてを否定できないが、「これからの高校野球は“自由研究型”にあたる、自ら進んで楽しみながら取り組む姿勢がもっと認められるべきだ」と。


『論語』の一節に、「子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」(雍也第六)とある。これは「先生は言われた。ものごとに対して知識をもち理解する者は、それを好む者にかなわない。好む者はそれを楽しむ者にかなわない。」という意味だ。(井波律子『論語入門』2012年、岩波新書)これを具体的に、直前に述べた野球にあてはめてみる。野球について知っている、知って理解しているだけでなく実際に投げたり打ったり、いろいろとできる。それはスバらしく結構なことだ。でも、いまはさほど上手くなくても野球が好きだということのほうがよほど大事なことではないか。好きだったら自らよく考え工夫することも含めて練習にもっと意欲的になり、結果上手くなっていくことも期待できる。「好きこそものの上手なれ」だ。そのうえ野球を「楽しむ」という境地だ。これはさらに進んでいるのではないか。たのしいからこそ、いろいろなことに果敢に挑戦でき、飛躍もできる。慶応高校の「エンジョイ・ベースボール」には、試合時の緊張やプレッシャーを楽しむことも含まれているという(「胃液と友だちになる」など)。


勉強や学びについても、あてはめて考えてみたい。僕は、知識がたくさんあって成績もよく勉強が「できる」ことよりも、たとえ知っていることは限られていても学ぶことが「好き」「たのしい」のほうが大事なことだと思う。しかし、いまの学校教育はその方向ではない。これほどまでというくらい知識を教え込み、子どもたちは覚え込まされ、初めは好きだった学びが、どんどん嫌いになってきている。いろいろな知識を身につけ、成績(点数)がよくなっても自分に自信がなく、学びに意欲的でない。そんな教育は成果を上げているとはとても言えないどころか、明らかに失敗している。僕は、2500年も前からの人類の知恵はどこへ行ってしまったのか、と思わずにいられない。


ここでまた僕自身のことを少し述べる。僕は40歳の頃、板倉聖宣さん(19302018)の「たのしい授業・仮説実験授業」と出会い、学ぶことの楽しさに開眼して、以後自分も大学で実践するようになった。僕は板倉さんの哲学・発想法に特に感銘を受けた。僕の哲学に関する知識は今も昔もたいしたことない(センター試験監督時に倫理の問題を解こうとしてもできなかったくらいだ)。でも哲学は好きだ。もともと好きだったところに、板倉さんとの出会いから哲学を「たのしむ」ようにもなってきた。哲学とはわかりやすくは、ものの見方や考え方のことだ。見方・考え方次第で、世界がそれまでとはちがって捉えられるのは、とてもおもしろく、たのしいことだ。


すでに野球を例に述べたが(勉強・学びについては、まだ途中)、もう一つ、ずばり不登校も例にしてみたい。先の孔子の言葉のうち、「之」を「不登校」に置き換える。すると、「不登校を知る者は不登校を好む者に如かず。不登校を好む者は不登校を楽しむ者に如かず。」となる。この意味は、「不登校についていろいろ知っているだけでなく、よく理解している者も、現に学校を嫌って好きに不登校している子どもにはかなわない。好きに不登校している子どもも不登校を楽しんでいる子どもにはかなわない。」というようなことになろうか。「かなわない」は「およばない」でもいい。世間の常識にとらわれているとそうはなかなか考えられない。けれど、少しでも不登校を肯定的に捉えなおそうとすると、十分に無理なく成り立つ考え方ではないか。不登校を「好む」とか「楽しむ」なんて、じつに痛快な考え方だ。そして、それは考え方だけではなく、僕らの会のなかで実際におこなわれていることだ。


よく知られた「人生楽しんだもの勝ち」というフレーズがある。ならば、新しく「不登校楽しんだもの勝ち」も知られるようになっていいと思うがいかがか。もちろん勝ち負けではない。いまは、文科省さえ「不登校を問題行動と判断してはならない」「不登校の子どもが悪いという根強い偏見を払拭する」と指導するようになっている。不登校は今後とも増え続ける。それはほぼ必然でさえある。そうしたとき、「不登校を楽しむ」という考え方は、多くの大人たちが気づかずに見落としているだけで、子どもたちには大変な自信と勇気を与えはしないか。ついでながら申し上げる。子どもたちの受験勉強はほどほどがいい。そのつもりはないと言っても知らず知らずのうちに人を馬鹿にし、また人から馬鹿にされないためにするような勉強はしないほうがいい。そんな勉強はちっとも楽しくないし、する人の人間性も疑われる。そうではない、興味や関心を深めたり広げたり、本当のところ自信になる、自分の「好きな」「たのしい」学びはいっぱいしたらいい。


「たのしい」といえば、会のメンバー7人で行った11/3の霧島・山歩きだ。車のなかでのおしゃべりも楽しかった。月例会の様子からもお察しかと思うが、僕とトモちゃんは日常、よくケンカする。その日、車のなかでも帰り、運転席と助手席でその気配が出始めた。すると、どうだろう。後部座席から、アツコさんとSちゃんが竹内まりやの歌を歌い始めるのだ。 (^^♪ けんかをやめて〜 二人をとめて〜♪ おかげで危機は去った。でも、しばらくすると、またその気配が… するとまた後部座席から、(^^♪ けんかをやめて〜 二人をとめて〜♪ の合唱だった。可笑しかった。そしてたのしかった。それでようやく気づいた。僕らはケンカをしないようにはできないのだ。できないことは無理してしようとしない。ケンカするときはたのしく、やればいいんだ。これはちょっとした、いやとても大きな発見だった。アツコさん、Sちゃん、ありがとうございました。






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初出:2023.11.28 最終更新: 2023.11.28
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