登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話

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体験談

2011年1月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.173より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら




自分を一番大切にする


2010年12月例会報告(抄)


12月例会も感動的でした。
初め、明子さんに自身の10年前の闘病について話してもらいました。結核のうえに肝臓がんまで。医者が「月からの生還」と言うほどで奇跡的に助かりました。大病など誰もしたくありませんが、したからこそのことも。明子さんは夫・透さんの優しさを再発見し、自分を大切にするようになりました。

笑さんは昨年2月から卵巣がんです。笑さんも強い。いまは抗がん剤治療中です。毎日をいっぱいたのしみ、大事に生きています。
じぇりさんは昨年12月に乳がんがわかりました。家族が特別視しないで普通に接してくれるのがうれしいと言います。例会当日もじぇりさんが「おみやげなんか買ってくる〜?」と言ったことに、子どもたちが「無事に帰ってくるのが一番のおみやげだよ〜」と答えてくれたとか。

明子さん、笑さん、じぇりさんの話は私たちに、私たちが大変な困難と思われることに遭遇したとき、それをどう受けとめどのように日々を送っていったらよいのかを教えてくれています。勇気や希望をいっぱいもらいました。ありがとう!

熊本から参加のTさんの話。別に部屋を借りて引きこもっていた息子さんに、「うちに帰ってきてほしい」「お母さんはあなたに気をつかわない」と宣言してから、好転。実際にいっしょに住むことができるようになりました。親の会の3原則がやはり大事です。

以前は長男の暴力に言いなりになって大変なことが重なっていたM子さんの場合も同じです。「これからは言いなりにならない」と、ときに警察の力を借りてでも「自分を大切にする」と心してから変化が起こってきました。教訓は共通しています。

26歳のM君が久しぶりに参加。肩の力が抜けていて笑顔がすばらしかった。

私たちの会は、親(大人)であれ子どもであれ、違いがありません。人間、こうじゃなきゃいけないということはじつはほとんどありません。
肩の力を抜いて、いまの自分をなによりも大切にするとたいがいうまくいきます。
今年も親の会で支えあっていきましょう!




目次

1 医者から「月からの生還」とまで言われて  明子さん・透さん
2 親の覚悟を見せたとき   M子さん
3 予想を立てると見えてくる    熊本のTさん
4 子どもの言動にごまかされない(その2) Tさん
5 乳がんと向きあって  じぇりさん




医者から「月からの生還」とまで言われて  

明子さん・透さん



透さん:私を支えてくれた言葉や文章を自分の考える材料にしようと思って『私の好きな言葉』として冊子にしました。自分で写真を撮って、印刷して、製本までしました。800円です。買ってください(笑)。仮説実験授業やこの会で学んだ言葉、宗教家ひろさちやさんの言葉などをおさめています。


―――ご夫婦の写真もいっぱいあって、あったかい優しい気持ちが伝わってきますね。親の会の言葉もたくさん紹介して下さって嬉しいです。明子さんは肝臓癌になり、大変な重病で、その前に結核にもなってとても大変だったんですね。その明子さんの言葉もたくさんあります。
ほんとに辛いこともたくさんあったんだけれども、でもこうやって自分の病気をよかったと受けとめていると話してくれましたね。癌になってもう何年になりますか。よく元気になられてね。



明子さん:10年なります。「月からよく生還されましたね。奇跡」とまで言われました。私は助からないと言われるくらい、手術したら癌が両手くらいの大きさで、おまけに結核で胸水が2.5リットルも溜まっていて、体重は40キロあるかないかの状態でした。歩くことはもちろん座っていることもできなくて、座っていることも体力がいるのだとわかりました。

私の作る食事は、五大栄養素を網羅して毎日5,6品は作っていました。働いていましたので、勤め帰りにたくさん買い物をして、完璧に食事を作り、まだ幼い子ども達が食べきれないと言っても、ダメ!と言っていました。私も働いているのにどうして私だけこんなに大変な思いをしなくちゃいけないの、という感じで子ども達にも夫にもぶつぶつ怒って生活していました。学校でも子ども達に怒って(笑)。

食生活は完璧にしているけど、このままでは私はストレスで病気になるんじゃないか、というのをいつも感じていて、亡くなった両親の仏壇に手を合わせながら、「もうお父さん、お母さん、私はこんなに怒った生活をしてたら病気になる、ほんとに死ぬかもしれない」と報告するくらいの毎日を送っていました。ほんとに病気になってしまいましたけど。

肝臓癌と言っても、もともと私はB型肝炎があって、それにストレスが引き金になってどんどん悪くなっていったんです。
体調が悪くてもほんとに頑張って、毎日家族5人分の買い物に行って疲れきってしまい、車から降りることもできず、車で座席を倒して休んでからやっと買い物をして、帰って来ても車庫でしばらく休んでから動くという生活でした。

煮物など作っているときにもでき上がるまで横になって寝ていたりして、夫は何も分からなくて、「お前がやりすぎるから、作りすぎるから」という感じで言って、それにもまた腹が立って、ほんとに不健全な生活でした。

病気が分かったのは、次男が開放性の結核になって、病院で家族全員の検診をすることになったからです。病院の先生が私の顔を見るなり「お母さん、顔色が変ですね」とおっしゃったんです。私はよく日焼けしているんですが、それなりに11月ごろには薄くなってきていたんですが、そのときは真冬になっても土色だったんです。結局は肝臓癌でした。

結核の薬を飲まないといけないので家族で肝機能検査をしたら、ものすごい数値が出ました。帰宅して医学の本で調べるともう肝臓癌の数値を示していて、「ああ、肝臓癌だ」と思って。初診の病院が紹介した鹿屋の医療センターで、その先生がもうどうしようもないようなことを言われたので、だったら私は民間療法をすると決めました。

私はそれまで健康食の民間療法に凝っていましたから、玄米を食べて……(―――家族もですか)はい。今思うとほんとにかわいそうなことをしたと思うんですが、長男の幼稚園の遠足にも玄米を持たせて、「あの時は嫌だったあ」と言うんです(大笑)。そのくらい病気になる前から徹底して気をつけていたんですが、それでもこんな病気になって、もう医者にも見放されたからさらに何とかして民間療法で治そうとしました。

最初の頃は仕事に行っていましたが、そのうち歩くことも出来なくなり、家でびわの葉の温灸や生姜のシップをし、夜は夫がしてくれるんですが、昼間は自分でしていました。とうとうどうしようもなくなって2階に上がったきり降りれなくなってしまいました。体重がどんどん減ってしまい怖かったんですが、あるときから今度は増えだしたんです。それは腹水だったんです。お腹が出て脚はむくんで、毎日1キロずつ体重が増えていきました。
どうしようもなくなってきたとき、夫が「イオンへ行こう」と言って私をだまして病院へ連れて行ってくれました。


―――ほんとに透さんは辛かっただろうね。


その頃は胸水も溜まっていて無理して起きようとすると激痛が走るんです。そんな状態の私の横で夫は寝ているのですから。私は病院へは行かないと言うし・・・。
私が病院へ行くと言ったら、夫は泣いていました。医療センターに行ったら結核と同時にできないと言われ、結核病棟がある鹿大病院で治療が始まりました。結核の薬を飲めば肝臓が悪くなる、肝臓の治療をしないと免疫力が落ちて結核も悪くなる、という状態でした。どうにか治療をする中で、結核菌をおさえて肝臓癌の手術をすることになりました。

術後1ヶ月して再発して再手術をして、そのときに思ったことは、そのときに本に「肝臓癌になりやすい人は自分の能力以上に頑張る人だ」と書いてあったので、あっそうだ、と思いました。今まで私は健康に悪いと思うことは一切せず、甘いものは食べないと徹底してきて、入院して初めて「あんぱん」を食べました。

食べ物も大事だけど、心なんだ、と思ったんです。いつも気持ちを明るく持っていることのほうが病気の予防になるんだと。それから食生活も変り、以前は目の前にあるお菓子も食べませんでしたが、ぜんぜん平気になって、食べ物も大事だけど心の持ちようをもっと大事にしていきました。


―――よく助かったわね〜! 結核と癌を同時にされてね。


はい。そして夫ともいい関係になれて。以前、私は子どもが育ち終えたら離婚はしないけど、別居をしようと思っていました。夫は私が病気になったら見放すだろうと思っていたら全然違って至れり尽くせりの夫になって(笑)、せっせと鹿屋から鹿児島の病院へ通ってくれました。

その頃はわが家は毎年病気が続いていて、最初は娘が顎関節を骨折して1ヶ月歯学部病院に入院、3月には留めていたのが外れてまた入院し、それが終わったら次男が開放性の結核で何ヶ月も志布志に通って、そしたら私の病気です。3,4年そういう状況が続いていました。そういうのがあったから家族が支えあって来ました。


―――明子さん病気になってよかったと思っているのね。


そうですね。よかったと思います。それも元気になれたからこそ言えることなんですけどね。私が胸水を抜く管をつけて半径2メートルしか動けない時期に、今みたいにイライラした生活が続くんだったらもう元気にならなくてもいいや、とふっと思ったことがありました。そのくらい精神的にものすごくストレスが多い生活でした。もうそんな生活は嫌だと思っていましたから。夫の両親にも怒り、周りに全て怒っていました。(笑)


―――今はどうですか。


今は笑うことが多くなりました。(―――イライラはなくなりましたか)もちろん私が時々切れて(笑)、(―――イライラは透さんにぶつけて)ぶつけてますね(笑)。前よりずっとずっと笑うようになって、楽しく生活することが増えてきました。


―――この冊子にはご夫婦のいい写真がたくさんありますね。ほんとに奇跡的ですね。


息子の検診で夫が私の初診の病院へ行ったら「あっ、亡くなられんですか」と言われたそうで(笑)、自分も助かるとは思ってなかったんですけど、でも気持ちというのは大事だと思っています。


―――自分に優しくされているのね。


その「自分に優しく」というのがいまいちできていないので、来年の課題にしようかなと思っています。


―――もっともっと自分に優しくしないといけないですね。透さん、どうですか。明子さん優しくなったでしょう。


透さん:この冊子にもその頃のことを「すべて受け入れて 心豊かに明るく それがキラー細胞 今日は!」と書いていますが、ほんとにそうですね。他人が見たらどういうかはわからないけど、もう神様にも行って、まさか僕がそんなところに行くとは思わないけど、怒りまくっている心が平静になればいいと思って行くと、神様なんてすごいです。来てはいろいろ言うわ、お祓いはするわ。(笑)


―――病気になる前は怒りまくってるというのを感じていましたか。


言い辛いよね(笑)。鹿児島弁で言えば「はらかっぼ」。怒りやすい人のことです(大笑)。ああ、これはそうなんだと思って。


―――透さんは明子さんが「はらかっぼ」でも、明子さんのことを愛していたんでしょう。お前がそんなんだったら、俺は俺だと、そんなふうに愛が冷めることはなかったんでしょう。


病気でなくても人と人との関係はそうなんだと思うんだけど、夫婦でもなかなか伝わりにくいでしょう。先ほどの話で、もう受け入れられないひどい状況であっても、癌とわかっても癌というのが自分の中にストンと入るのは時間がかかって。
だってほんとに妻が苦しんでいるとき、手術は4月ですけど、医者に宣告されたのは1月で、12月のひどく苦しんでとき私はわざわざ次男とコンサートを聴きに行きました。妻にコンサートのことを話したら、こんな人だから「行けば」と言うんです。

ほんとは「心配だから行かないで」と言ってくれたらもっと違うんだろうけど、「行けば」と言われると行きたい気持ちがあるので、ほいじゃ行こうかとなって行ったんです(笑)。帰ってきてみて「行けば」という気持ちはほんとの気持ちではないんだ「行けば」と言っても・・・


―――「行けば」と言ってもほんとは行って欲しくないんだと(そうね)。私の傍にいて(そう)。あなたは「行けば」と言ったらから行ってもいいんだと思ってしまうわけね。


そう、そう、言葉で言っても伝わらないことがあるわけね。


―――そういうことにも気づいてこられてね。今は明子さんを大切にしてこられたわけですね、雨の日も嵐の日もね。今は「はらかっぼ」ではないんでしょう。(笑)


昔の「はらかっぼ」と今の「はらかっぼ」は違う(大笑)。


―――透さんは怒ることはないですか。


あるけど。昔は怒りをストレートに返していたけど、今返したらいけないんだと学んだんです。今の怒りと訴えは聞かないといけないなと思い、聞いている自分を自覚するんだけど、それでもダメなこともあって、これだけ黙って聞いているのにダメだ、というのがもたげてくるわけね。(笑)


明子さん:私だけが「はらかっぼ」になっているけど、いつも怒っているのはひとつだったんです。やっぱり共働きで子ども3人を育ててくる中で何も家事に協力しないんです。だからなんかしてよと、そこだったんです。


―――内沢達:その点は俺は家事をするから、勝ってる(大笑)。


―――透さんも明子さんが病気になってよかったと思っていらっしゃるんでしょう。


透さん:出来たら病気などならないで、いい結果が得られたらいいけどね(笑)。


(例会の終わり頃のひとこと)

明子さん:周りから助かるとは言われていませんでしたが、夫が漢方の先生のところに行って希望を持たせなさいと言われたようで、夫が希望を持たせるためにありとあらゆることをしてくれました。うちには600坪の畑があって、私は畑仕事が好きだったので、ここに何を植えようかとたずねるんです。それを希望にしようとしたんですが、私がそれを考えたってできるわけがないんだからと思ってしまい、希望もありませんでした。

だけど夫が以前とは打って変わってすごく優しくて、ウルウル泣くし、夫のあたたかさに感動しました。希望があるわけではないんだけれど、ただあたたかくていいなあとそういう思いがあって、それが支えでしたね。生きる希望を持っていたかというとそんなことも思えない状況で、何も考えずボーッと過ごしました。


透さん:みなさんのお話から、「無理な理屈で考えるから分からなくなる」、ああそうだなと思って今日もここでいい言葉を学びました。学校で図工の時間は「キミ子方式」で絵の描き方を教えています。普通は全体を描いてから部分を描いていくんですが、キミ子方式は部分から描いていって、仕上げていく。できたところが途中でも完成なんです。

人生も生きたところまでが人生と考える。だからその日その日で描いていけばいい。先々の不安にとらわれないで毎日を生きるということですね。本当にいろんなところでいろんなことを学んで、学んだことを自分にあてはめていけば優しくなれると思います。Aさんの、自分の夫は元々ができない人という話は自分に言われたみたいで(笑)、また今日からいろいろしないといけないと思いました(笑)。






親の覚悟を見せたとき   M子さん



27歳の長男と22歳の三男が家にいます。次男は東京で働いています。
私は銀行のカードもお金の管理もすべて長男ににぎられて経済的にも追い詰められて、暴力もあり、本当に大変な毎日でした。

しかしもう我慢できなくなって内沢さんに相談したら、「警察に訴えて、あなたの覚悟を見せなさい」「長男からカードを取り返してあなたがきちんと家計を管理しなさい。もし返さないようだったら、もう2人の子どもをおいて家を出る覚悟をしなさい」とアドバイスをもらいました。

7月の例会の後、私も「今だ。今変わらないといけない」と思って勇気を出してカードの件を話したら、長男は案の定、荒れて暴力まで出てきました。私は家を飛び出し、何時間も警察の前を行ったり来たりしました。やはり我が子なので迷いました。電話で姉から「警察へ行きなさい」と背中を押されて、やっとの思いで交番へ訴えました。

おまわりさんはとってもやさしい言葉をかけてくれて、「一緒に家までついていこうか」と言って、どうしようか迷ったけどひとりで帰りました。帰って「警察へ話してきた」と言ったら、長男はこれまで以上に私を監視し、どこにも逃げられないように私を家に閉じ込めてしまいました。

また暴力もあり、すきを見て交番に相談したら、2人のおまわりさんが家へ来て、決して責めるのではなく、親子のように諭して下さいました。しかし、その時の長男の目つきは異常で、「警察の方が帰ったら、私は殺されるかもしれない」と本気で思いました。おまわりさんが帰った後、やはり長男の暴力はひどかったです。私を見張るようにいいつけられた三男も寝ないでずっと私を見張っていました。

私に「内沢さんや瀬戸山さんに電話しろ」、私の兄姉にも電話しろと言って、私の兄姉が交番に電話をかけたおかげで、次の朝警察が来て、「今度こんなことをしたら、連れて行くこともできるから」と言ってくれました。その時は被害届けは出しませんでした。その後長男の暴力はおさまりました。


私は料理を作るのが大好きで、栄養面を考えて30品目食べるとか、添加物のない手作りを心がけてきたけど、もう大変な時はそれどころではなくて、生きて行くために最低限のものが口に入ればいいという生活で、子ども達もあんな生活はもうイヤだと変わっていきました。

私が警察に駆け込んだことを、想像以上に子ども達はうらんでいました。親の会で「子どもを信頼しなさい」と言われていましたが、この子はもうどうなってもいい、自分も死んでしまいたいとそのことばかり考えていました。

今は息子も私をうらむことなく親子関係を取り戻しています。本当に極限状況になったおかげで「生きてさえいればいい」と今まで以上に物事に感謝できるようになりました。


―――本当によかったですね。あなたは今いい職場にも恵まれて再び働いているんでしょう。


はい、病院で食事を作っています。とにかくボーとしていたら大変で、人の命を預かっていることなので以前以上に心をこめて仕事をしています。


―――今、親子3人で落ち着いて生活しているのね。肝心なのはあなたがお金の管理をして、生活を立て直していくことですね。


う〜ん、まぁ、私がしていることになっています(笑)。今朝、2日前に会報と一緒に届いた「心配しないで信頼する」の記事を読んでいたら、以前三男が頭を四六時中ぶつけていたり、拒食になった時に、「もうこれで食べなくて死んでもいい」と、私が覚悟を決めたら三男が食べ始めたことをいろいろ思い出しました。

それまでは「食べないで倒れても知らないよ」と口では言っていたけど、実際倒れたら心配で病院へ運んでいました。本当にどうしようもない時は、倒れても病院に連れて行くこともできない、と覚悟を決めたら気が楽になったんです。我が子を心配しないで信頼する、私の覚悟が必要だったんですね。


―――長男さんの暴力だって、あなたが毅然とした態度を取った時にはじめておさまったでしょう。長男さんのいいなりになっていた時はいつまでも大変な状況が続きましたね(はい)。あなたの息子さんへの信頼が伝わったのですね。私はあなたがどれだけ腹をくくれるかによって、親子3人が仲良く暮らしていけるか決まると思いますよ。人の話はわかるけど、自分のことになると特別と思ってしまう。でも皆共通しているんですね。


それはここで何回も聞いているんですけど、なかなか長男に対してはできないと思っていました。ここで言われているように、人を変えることはできないけれど、自分は変わることができるし、もっと自分に目を向けていかないといけないと思っています。






予想を立てると見えてくる    熊本のTさん



熊本から参加しました。今16歳の息子は中2の3学期から不登校になって、自分の部屋に引きこもり、私たちとも会わない生活を送っていました。今年4月から通信制高校に行くと言って高校の近くにアパートを借り、ひとりで生活していました。しかし高校には行けず、食料を買い物に行くこともできなくて、私が週に1回食料を届けるという状況でした。HPを見て今年6月、初めて親の会に参加した時に「まず、一緒に住むことがあなたのスタートです」と言われました。

それで私は勇気を出して「家には食べ物がいっぱいあるし、お母さんが食事を作ってあげるから帰っておいで」と言いました。息子は「家には一生帰るつもりはない。どこでそんな風に人を追いつめる話し方を学んだの?」と言いました(大笑)。

私の変化を敏感に感じ取っているようでしたが、「言いなりにはならないから」とはっきり宣言したんです。そうしたら10月になって突然息子から「家に帰るから迎えに来て」と連絡がありました(笑)。迎えに行ったらもう荷物もちゃんとまとめてありました。


―――あなたはその時、どう思われましたか。


もう、びっくりしました。まさかこんな早くに一緒に暮らせるとは思っていませんでしたから。この親の会に参加してから、一緒に暮らしたいという気持ちがすごく強くなって、それが自然なことだとつくづくわかったんです。私の気持ちが通じたんだなあと思いました。

今も相変わらず引きこもり状態で、私達に姿を見られるのはイヤみたいですが、部屋のドア越しには普通に会話をしますし、携帯に電話をかけて来て話をします。私が作った食事を自分の部屋で食べたり、台所に置いておくとそこで食べたり、本人は落ち着いて生活をしているようです。

私が持っていた中学生の頃の息子のイメージは、暗い部屋の中で得体のしれないモンスターみたいな存在になっているというかんじでした。今は明るい部屋で息子が穏やかに生活しているというイメージです。だから私も心が安定しています。

先日19歳の姉がボーイフレンドをはじめて自分の部屋に連れてきたんです。息子の部屋の隣で、息子が「他人を家の中に入れるな」と言ったんです。それで帰るまでお風呂に籠城した「籠城事件」がありました(笑)。

ここでそんな話を聞いていたので「あっ、きたきた」と思って、「別にそこにいたいのなら、いてもいいよ。母さんは仕事に行くから」と言って出かけたら、あとは出て自分の部屋に戻ったようです(笑)。何時間ぐらいいたんでしょうか。姉は「そんなこと自由じゃない」と言いました。(――すばらしいお姉ちゃんですね

息子にも「父さんや母さんもお姉ちゃんもあなたに気を使って息をひそめて生活するなんてできない。私達は私達で楽しく自由に暮らすから」と言ったんです。そしたら息子は「自分には自由がない」とブツブツ言ってましたが、放っておいたらそのあとは普通に引き込もっています。
ここで学んだ「予想を立てて考える」ことができるようになり、受けとめられるようになりました。


―――素晴らしいですね。最初に参加されたときに、自営業だから近所の目を息子さんが気にしていると言われましたけど、ご家族が異常視しなくなると何も問題なしということですね。息子さんが部屋を借りる前は、自室に引きこもって御両親に姿を見せないということがありましたが、なにかキッカケみたいなものがあったんですか。


いえ、私達との関係でそういうキッカケは全くないんです。息子は学校生活や先生への不満は言っていましたが、もう学校へは行かないと決めてからしばらくは普通に家の中をウロウロしていたんです。3学期頃から完全に自分の部屋に閉じこもっていきました。


―――あなたのお気持ちが楽になって本当によかったですね(はい)。あなたのおつれあいさんも同じお気持ちですか(はい)。何か楽しいことをされていますか?

はい。私は「嵐」ではなく、関ジャニ∞(カンジャニエイト)とかNEWS(ニュース)のファンです(笑)。関西のグループで、娘と一緒に大阪までコンサートに行ったりしています(笑)。


―――それはよかったですね。大切なお話、うれしいですね。






子どもの言動にごまかされない(その2)  Tさん



(前月、紹介したTさんのその後です)

高2の娘は中学から行かなくなって不登校の子どもを受け入れる私立のドリームコースに行っています。娘は先々月から食べなくなって、吐き気や頭痛で入院して3ヶ月になります。先月の例会で私は不安が大きくて、目の前で苦しんでいる娘を見ると、信頼じゃなくて心配の方が大きくて、この会でいろいろ言われたんですが、その時は分からなかったんですね。元気な不登校だといいけど、やっぱり私もすごく心配だったんですね。

だけど、病院から請求書が来て、その金額を見ると10万以上かかって、そっちの方もショックでした。母には今まで夫のことで迷惑をかけているので言えなかったんです。私の様子から母は分かったのか「お金のことで悩んでいるの」と言われて、「いや、大丈夫。何とかするから」と言ったら、「足りないのは出してあげるから、あなたたちも頑張りなさい、だけど孫にも“これだけかかっているんだよ”と言いなさい」「子どもだから何もお金のことは分かっていない、そうしないと病院の方が居心地が良くてずるずるいてしまうかもしれない」と言いました。

娘には言いにくかったんですが、夫にも「言ったほうがいいよ」と言われて、「お金もこれだけかかるから、お母さんも働かないといけないからあまり病院にも来れないよ」とほんとのことを言いました。「ここにいても薬を飲んでいるだけだから、家に帰ってきて様子を見ればいいんじゃないの、どうかあるときは先生の顔を見にきたらいいよ」と言ったんです。そしたら娘は「お母さん、何言っているの。私は病気でここにいるのよ、私は頭も痛いし、吐き気もするし、お腹も痛いの」と言いました。

最初「精神的なものだから」と言うと、「私は精神的なものじゃない、病気なんだから」と言われてしまい、「分かった、お母さんの言い方が悪かった」と言いました。私は「検査をしても何も出てこなかった。完全に精神的なものだ」と思っているんですが、でもこれは言うまい、娘がそう思うんだったらそれでいいと思い、ただ「お母さんは今まで通り毎日来られないよ」と、今では2日おきぐらいに洗濯物を取りに行くだけです。

娘はメールで「何で来ないの、私はこんなに苦しんでいるのに」と言ってくるんですが、私は「大丈夫、お母さんは仕事で忙しい」と返事しています。私と会えない分を先生と話をしているようです。先生としては年内に退院をさせたい感じなんですね。


―――あなたは毎日行くのをやめて、少しは親の会で安心されたのね。


安心しました。私も毎日行くのは負担だったし、娘の不安を大きくしているだけじゃないだろうか、私が毎日娘の目の前にいるよりは、娘にも考える時間を与えたほうがいいんじゃないかと思いました。


―――気がついてよかったですね。先月の会報の扉の言葉にあなたのことを紹介しました。「人の話はわが話。わが話はみんなの話」ですが、いざ大変が続くと「うちの子の場合は特別じゃないか」などと思ってしまう。今回は娘さんのことついての受けとめ方がそうでした。

“でも、これはありがたいことでもあるんです。子どもたちはときに「親を困らせ心配させる」ようなことを言ったりしたりして、私たちの子どもへの「信頼」がほんものかどうか試してくれています。私たちの成長を促してくれているんです”と。


医者も「話していますよ。クリスマスやお正月があるのでこれをきっかけに退院できたらいいと思っているんです」と言っています。娘は退院というのが頭にあると、また不安が大きくなって「大丈夫だろうか、また悪くなるんじゃないだろうか」と、この前の外泊の時もさんざん言うんです。私は「大丈夫なんじゃない、やってみないと分からないよね」とさらっと流しました。

私も仕事をしているので疲れて余裕がなくイライラして身が持たないんです。でも、そういう不安を持つのも仕方がないなと思って「駄目なら駄目で、また先生に話したらいい」と言いました。


―――娘さんは「私はこうあらねばならない」と自分を縛っている、だけどほんとの自分はそうじゃない、もっとゆっくりしたいんですね。それをお母さんに分かって欲しいという気持ちでアピールするわけですよね。そのたびごとにお母さんが振り回されて、気持が沈んだり落ち込んだりを繰り返す、すると娘さんはいっそう不安になって、これでもかこれでもかとお母さんに訴えてくるんですね。だから病院に行くとしたら、私が行きたいから行くというときだけ行けばいいですね。入院費が月10万円以上といったら相当な金額でしょう。


学資保険をかけているんですけど、それも退院しないと請求出来ないし、3ヶ月後にしか出ないと言われ、大変ですけど、母には今まで迷惑をかけているのであまり言いたくないんです。でも母は母で私が悩んでいると手を差し伸べてくれるので、結局甘えちゃうんですよね。


―――今まで手を差し伸べてもらっていいことはなかったでしょう。高額医療費については笑さんに教えてもらったのね。


はい、すぐ次の日に市役所に行って手続きをしました。助かりました。


―――今、子どもを「心配」しないで「信頼」する、とてもいいチャンスですね。先月の会報をじっくりお読み下さいね。あなたが安心していけば、娘さんは必ず安心していきます。でも娘さんは学校を休んでゆっくりすることをなかなか承知しないでしょう(はい)。

私の娘もそうでした。高3の時、学校に行きたくないのに学校を休むことをなかなかできませんでした。自分で行ったり行かなかったりしていました。その後、タイに行ったんですが、タイから帰ってからしっかり引きこもったんですね。その時娘は23歳でした。イライラして、マンションの廊下に穴を空けるわ、親と喧嘩はするわ、ほんとに胃がひっくり返るとはこのことだというような喧嘩なんです。でもね、あなたの息子さんがそうであるように、娘も自分が納得するまで時間をかけて優しさを取り戻していきました。私達は放ったらかして、夫婦で海外旅行に行ったり、三人で愛犬と散歩に出かけたり楽しい思い出をいっぱい作って毎日を過ごしました。


お兄ちゃんもそういう道を通って、今すごく落ちついて自分を見つめてしっかりしているので、娘も同じようにそういう道を通っていかないと落ちつかないのかなあと思うんですよね。


―――あなたは、離婚届けのサインはしたけれどもまだ離婚はしていないのね。あなたの夫は、今は一番の心配であるパチンコも行かなくなったんでしょう。パチンコ店が閉まる10時まであなたの家にいて、それから自分のアパートに帰るのね。


そうなんです。と思ったら娘にお金がかかるようになって(笑)、うまくいかないなあと思って。でも、夫と一緒に住むところまではいかないですね。


―――それだけ、心の傷も大きかったんですね。でも、あなたの誕生日にブランドのバッグをプレゼントしてくれたんでしょう。嬉しかったですね。あなたは自分のわくわくを見つけているのね。


韓国のジョン・ライウンのエクササイズをしています。今それを始めてから1,5キロしか痩せていないですけど、8キロもやせられないです(笑)。でも、美しく痩せるダイエットなので楽しいです。その34分間だけは一生懸命学生に戻った気分でやっています。子どもが私の後ろで笑っているのが気になるんですけど(笑)。お兄ちゃんも私と一緒に身体を動かしてやっていますからいいなと思っています。すっかり別人のようになっています。


―――そうやってお母さんが生き生きしていることが何よりですよね。






乳がんと向きあって  じぇりさん



先月お話しましたが、やっぱりしこりは2,2センチでした。手術して抗がん剤で治療します。初めは息子が一緒に行ってくれて、2回目は娘も一緒に三人で行ったんですが、病院から「今度は針生検した結果をお伝えしますのでおつれあいさんと来て下さい」と言われ、夫とふたりで結果を聞きに行きました。最初に受診した病院で多分そうでしょうと言われていたので覚悟はしていたんですが、でも違うかもしれないと思う気持ちもあってドキドキしながら聞きました。

医者から報告があったんですが、何か自分のことなのに半分冷めている自分がいて、いろんな自分がいるんだなと思いました。今日まで淡々と話している自分もいるし、ワッーとなってしまう自分もいて、今日まで来ました。宮崎の病院から鹿児島のS病院を紹介されて、明日そこを受診します。

鹿児島は以前夫が仕事を辞めたりと、いろいろあったところで、私は夫のことを考えて嫌なんじゃないかと思っていたんですが、喜界島にいる母が「こんな時は母さんが頑張るから。母さんが付いているから大丈夫」と言ってくれて、私の妹も鹿児島に居るので鹿児島がいいんじゃないか、と言ってくれました。母の家系は癌の家系で、母の妹も30代で子どもを残して亡くなっているんです。

いろんなことを思いましたが、結果がわかってからのうちの家族って本当に普通なんですね。親の会で「不登校の子は、親が心配して周りでウロウロされたら耐えられない。普通が大事だ」と言われますが、ああこういうことなんだなと思いました。


―――あなたの周りでウロウロ、オロオロされたら耐えられないよね。それと同じですよね。


息子が「もし俺が癌になるとしたら何歳ぐらいがいいんだろうな」と言ったんです。「医学が進歩したとしても体力がないと年を取ってからは大変だから」と言うんです。そういう考え方ができるのかと思って、「心配かけてごめんね」と言ったら、「いや別に心配してないから」と言われて(笑)。今日も出かける前に「何かおみやげ買ってくるー」と言うと、「帰ってくれることがおみやげだよー」と言われて(笑)。

ここに来る時もここでどんな風に話そうかと思いながら来たんですが、私は家でも職場でもいやなことはひとつもないんですよ。絶対に病気じゃない方がいいに決まっているんですが、思ったのは自分がその気になったらいけないなということです。熱があったら気持ちが負けて病人になってしまうみたいなことがあるじゃないですか。自分が癌だからと思うことで自分を不幸にしたらいけないなと思いました。

不幸でもなし、可哀そうでもないと頭では思ってるんですが、どっかでそういうふうに入りかけている自分に気がついて、それはやめようと思いました。プールに行くとすごく楽しくて、病気のことを忘れているし、というか今のところ何も変わっていないし、変わっていないんだけど、そう言われたことで不幸になったら損だなと思うんです。


―――不登校の子はかわいそうだとか、辛いんだとか周りが思ってしまう。でも実際はそうではない。その人らしさというのはたとえ癌という病気があったとしても決して変わるものではないんだということですね。そのことに気がつくじぇりさんは素晴らしいですね。


気がついたというよりも周りがそうだから、そんなふうに思えるんだと思います。夫が以前に「なにが幸いするか分からないんだよ」と言ったのを思い出して、そうだったな、夫が仕事を辞めた時にこれからどうなるか分からないと不安でたまらなかったけど、過ぎてみれば悪いことは何もなかった、流れが変わるきっかけになっていきましたものね。

昨日会報を見ていたら笑さんが「癌になって良かったとまだ100%思っていないけれど、いいこともあるんだなと思えるんです」と書いてあって、私もそれを思っていて・・・(涙ぐむ)。


―――先月の会では、この道もありなんだな、幸せを決めるのは自分なんだ、と話しあいましたね。

淳子さんが重則さんの赴任先に一緒に行って、経済的には大変だけれど、自分で道を決めていけるんだと話されました。みどりさんも「うちの子ども達は不登校だけれど、とてもいい子に育っています」と言われました。それで私は会報に「不登校だから“とてもいい子です」と書きました。私の夫が心筋梗塞になった時には大変だったけれど、でもそれがあったから今幸せに暮らしているんですね。

だからどんな道でも幸せは自分が作ることができる、そういうことだと思います。人生は本当にすばらしいし、困難と思えることでもそこからまた大事なことを教えてくれますよね。じぇりさん、みんなで祈っていますよ。この経験が必ずよかったと思えるようにね。





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最終更新: 2011.3.21
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