登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2012年2月発行ニュースより



体験談

2012年2月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.185より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら




自分のこと、いっぱいほめてあげよう!

2012年1月
例会報告(抄)


「“治らなくていい”で“治る”」(『朝日新聞』12月27日付け記事の見出し)の、『ツレがうつになりまして』の夫婦の話は、本当に教訓的です。ツレさんは、「人はどんなときだって自分の生きざまを誇れる」と言っています。自分のこと、いっぱいほめてあげよう。自分の人生の主人公は自分です。自分のどんなありようも、誇っていいくらいです。

Hさんは、「俺ってやばくないかな?」と言う息子さんに、「お母さんは今のまま、元気であなたと暮らしたい」と言いました。Kさんは、「親の会の“人は変えられない”という考え方がスッと入ってきた。辛い時に“死ぬ”と言うのはあたりまえ、息子の気持ちを丸ごと包み込んであげたい。(“やる気がでない”という息子さんに)そのまま生きて行けばいいじゃん」と言いました。HさんもKさんも、わが子を信頼する自分の気持ちをそのまま言えて、すばらしいです。

長谷川登喜子さんは、15周年記念誌を読んだお父さんとの以前のやり取りを紹介しました。「お前は難儀したんだな」と言われたときに、「違うよ、お父さん、おかげで私はたくさんの友だちもできて幸せだよ」と答えることができました。

じぇりさんは、12月例会後のお母さんからの夫あての手紙にふれました。夫からは「やさしさと思いやりにあふれた手紙だった」と。「優しさは優しさで気づく」ですね。まつぼんさんも、「年末ぜんそくで寝込んでしまい、夫が家の掃除を全部してくれて」「私の機嫌がなおりました(笑)」と嬉しそう。「家族に議論はいらない」が見事に当てはまる話が続きました。しずりんさんからも「いい嫁でなくて、良き妻でいたい」と素晴らしい言葉がありました。

年の初めにふさわしい感動いっぱいの例会でした。
かつてない寒波が続く今冬、イイ話で暖まっていきましょうね!





目次

1 「お母さんは今のまま、あなたと暮らしたい」   Hさん

2 人は変えられないんだな   Kさん

3 「ダメ」を認められるようになると、もう「ダメ」じゃない   内沢 達

4 やさしさはやさしさで……母から夫への手紙   じぇりさん

5 「お父さん、私ね、いっぱい幸せだったんだよ」   長谷川登喜子さん





「お母さんは今のまま、あなたと暮らしたい」

H
さん




―――Hさんの先月のお話はおかしかったですね。夫のお姉さんに「高校の手続きをすぐにしなさい」と言われて「その必要はない」と答えたら、「あなたはあまりにお気楽すぎる」と言われたのね。息子さんはお父さんを拒否して一切会っていなかったんだけれど、あなたがアロマの勉強で2週間家を留守にした時に、あなたの夫が息子さんに毎日お弁当を届けて、最後の日に息子さんと顔を合わせて話ができて、ご夫婦ですごく感動したのね。年末、夫は単身赴任先からご自宅へ帰って来たの?


夫は12月23日から2泊3日で帰ってきました。息子に「お父さんが帰ってくるけど、いい?」と聞いたんです。「ああ、わかった」と言ったように聞こえましたが、はっきり聞こえなかったので、また「泊まってもいい?」と聞きました。1年前までは夫は自宅に泊まることが出来なくて、夫の実家に帰っていました。


―――「泊まっていい」と聞くのはどうかな。子どもはどう答えていいかわからない。それよりも「帰ってくるよ」と言うだけでいいですね。


そうですね。当日は内之浦の私の実家へ行ってから、自宅へ帰ったんです。息子に「お父さんが帰ってきたよ」と言うと、息子は「ちょっと待って」と言って1階の障子を全部閉めてしまいました。その間私達は外で待っていました(笑)。息子は2ヶ月前から占領していたリビングから2階にある自分の部屋に戻って生活していたんですが、本やデッキなどの荷物をまたリビングに移動していました。息子が「入っていいよ」と言ってから夫は直接2階へ上がりました。その日の夜は、夫は飲み会があって出かけたので顔を合わせることはありませんでした。食事は夫婦二人で2階の寝室で食べ(笑)、息子はリビングで食べました。


―――まだ息子さんに遠慮しているみたいですね。


はい。でも夫は自宅に帰ってこられたことがとても嬉しかったみたいで「ありがとう。それ以上望まないから」と言っていました。

今、私の母が大学病院に検査のために入院しています。実家が大隅なので大学病院までは遠く、私の家に泊めてもらえないかという話があったんです。私の両親には息子が不登校であることを言っていません。娘のことを言った時に母は寝込んでしまい、今回はとても言えませんでした。両親が来るとなると家の中を見ますよね。襖は破れているし、障子もボロボロではずしているし、大きな穴もあいています。どうしようかなと思って息子に「ばあちゃんを泊めていい?」と聞いたんです。しばらく考えて「俺リビングで過ごそうかな。でも家は狭いし、できるだけ帰ってもらってほしい」と言いました。

木藤さんにも相談しましたが、いい機会なので「学校へは行ってないけれど、家で元気で楽しく過ごしているよ」と両親に本当のことを伝えようと思いました。しかし母は手術を控えてとても落ち込んでいて、話せませんでした。母は検査入院となり、結局私の家に来ることはありませんでした。

1月14、15日はセンター試験で新聞にそのことが載っていました。母が「○○は受けないの」と聞いてきたんですが、「受けないよ」とサラッと言って、それ以上母も聞いてきませんでした。毎日検査、検査でたぶん自分のことで精一杯なんだと思います。

先日息子が「俺、やばくないかな? 何もしていないし、手遅れじゃないか」と聞いてきたんですが、どうしようと思ってドキドキして「何が」と言うのが精一杯でした。「赤ベコ」も出てくる余裕がありませんでした。(笑)


―――あなたは息子さんがいろいろ言ってきても「うん、うん」と赤ベコのように頷いているだけでよかったんだ、と言われたんですものね。


私に「どうしたらいい。何か答えて」と言うんです。私もどう答えていいのか分からず、沈黙が続きました。1年前はそういう状況から「俺はもう駄目だ!」と発展して、怖くて足ががくがくしていました。「何か言って。俺は何も言わないから」と息子は言いましたが、何を言っていいのか分からなくて、木藤さんに聞いておけばよかったと思いました(笑)。

「高認をとって大学に行けば」でもないし、「バイトをしたらいいじゃん」でもないし、「大丈夫だよ」も違うなあと思って。「お母さんは今のまま、元気で、あなたと暮らしたい」と言ったんです。息子は「エエ〜ッ!お母さんは先に死ぬし」と言ったので(笑)、「お母さんは元気だから死なないよ」と言ったら、「いや、先に死ぬと思うよ」と言われました。(笑)


―――とてもいい言葉でしたね。言ったことがそのままあなたのお気持ちだったのね。


はい、そうです。「このままでいいよ」「一緒にずっと暮らしたい」ということを伝えたかったんですが、どう伝えたらいいかがわからなくて・・・。


―――自分の気持ちを伝えることが出来てよかったじゃないですか。


そうですね。「俺、お金があったら一生楽しく暮らせるのになあ。やっぱりここを出たいし」と言いました。「お母さんもここを出たい。周り近所もうるさいし」と言ったら、「都会がいいの?」と言ったので、「都会か田舎かわからないけど、出たいなあと思っているんだ」と話しました。以前だったら、「そんなこと言って。働いて金を稼げ。どうにかしろ」と怒鳴っていた息子ですが、全然違ったので、足の震えも止まりました。でもなぜだか涙が出てきました。


―――それは息子さんが素直に話してくれたことへのうれし涙だったんじゃないですか。そんなに穏やかに話せるなんてね。


母の入院に合わせて娘が福岡から帰ってきました。「お姉ちゃんが帰ってくるよ」と電話で伝えたら、息子は「わかった」と言って何も言いませんでした。でもふたりは3年くらい顔を合わせていないんです。娘も夫と同じように帰ってきたらさぁーっと2階の自分の部屋に入ります。息子の方が拒否しています。

年末は夫の実家へは夫ひとりで行ってもらいました。夫から誘われたんですが、私はしたいことがあったので断って好きな事をしました。夫の姉の子ども達が優秀なので、比べられるのが嫌で足が遠のいています。お正月は夫の赴任先の屋久島に行ってふたりで過ごしました。


―――世間の価値観でいう優秀なんでしょうが、何が優秀なのか、ということですね。自分がしあわせだなあという心を持っていることが一番ですね。今の教育観は優秀であっても自分はダメだと否定してしまいますね。

でも去年に比べたら格段に違いますね。去年は夫の実家で過ごして、息子さんを腫れもの扱いしていましたものね。「お母さんと一緒に暮らそうよ」と言えたあなたは大きな二重丸ですね。






人は変えられないんだな   Kさん



―――Kさんも変わったなあと感動しました。先月は、「今日は不登校祝1年!だ」と息子さんに言われたのね。「お母さんは80歳まで生きるからお母さんが死んだ翌日に死んでいいよ」と言ったという話でした。あの「死ぬ、死ぬ」と言っていた息子さんがねぇ、大したもんです。


ちょうど例会が終わった夜に、また「死ぬ、死ぬ」と言ったんです(大笑)。皆さんにちょっと元気になったと言った手前、あらっ、と思いましたが、行為に至るわけではなく、「俺はだめだ、生きていても仕方がない」といつものようにぐだぐだ言っていました。そこで私は一瞬落ち込んだんですが、翌日「ああ、そうだ。人は変えられないんだ」というこの会の考えがすーっと頭に浮かんできて、「うちの子が死ぬ、死ぬというのをやめさせることも出来ないし、変えようと私が思ってもダメなんだ」と気持ちが楽になりました。そういう考え方を知らなかったら、「ああ、やっぱり治ってなかったんだ」と思って落ち込んだままだったと思います。

昔、一番ひどい時は「1秒でも生きていたくないんだ。もう死にたい」「それをわかって」と言っていたなあと思い出しました。私にとって息子の「死にたい」は死との直結を意味していて、それをわかるということは死ぬことを肯定することだと思っていました。人間は生きるために生まれてきたし、生きていたいと思うのが本当だと思っていたので、「死にたい」と言う息子が許せませんでした。

今はそういう思いをわかってほしかっただけなんだ、息子を丸ごと包み込んであげたらよかったんだと思います。 これから先も言い続けるだろうと思いますが、辛い時にそう言うのは当たり前ですし、その時には息子の気持ちを認めてあげようと思っています。


―――すばらしいですね。見方を変えると、自分のお気持ちもずいぶんと楽になるし、息子さんへのいとしさも増してきますね。息子さんの気持ちが理解できるようになる。


ああ、変わらないのかなあとがっかりもしましたが、息子も生きたいと思っているのも事実だし、その日の夜だけで後はありませんでした。圧倒的に「死にたい」と言うことが少なくなり、お正月は穏やかに過ごせてとっても幸せでした。

一年前は12月14日から行かなくなり、そのまま冬休みに入ったので、3学期から行くかどうか不安でたまりませんでした。息子は息子で夜、競技場に走りに行ったり、きっと子どもなりにやる気を起こそうと思ってやっていたんだと思いますが、エネルギーを全部使い果たしてしまったんでしょうね。お正月に夫の実家へ泊まりがけで行って、迎えに行ったら、車から飛び降りようとしました。「俺はこんなんじゃダメだ、死にたい」と言って。グチャグチャなお正月でした。でも3学期の初日に行かなかったときに、多分もう行かないだろうと吹っ切れました。

この親の会へは2月から参加しました。この会とつながりがある中学校の先生が担任に勧めて下さったんだと思います。それまでは担任はちょくちょく家に来ていました。中2の担任はメールでのやり取りで、どうしても息子に会いたいと言いますが、無理に会おうとはしませんので、私も楽ですね。ポストに書類が入れてありますが、そのプリントも見ないままです。


―――イオンのゲーム大会は楽しんでいるようですね。


はい。昼夜逆転しているのに土曜日はリセットして、必ず自分で9時45分には自転車に乗って行きます。私は以前のように車で送り迎えしなくてよくなり、今は小4の弟のために送り迎えしています。

弟が「お兄ちゃんにカードを買ってあげるんだったら、僕も不登校になってやる」と言いだしました。不登校になったらカードを買ってもらえると思っているみたいです。私は「お兄ちゃんは不登校になりたくてなったわけではないし、あなたが本当に行きたくなくて、友達とも遊びたくなくて不登校をするのならいいけれど、何か買ってもらうために不登校になるのは絶対に許さないからね。一番辛いのはお兄ちゃんなんだから」と言いました。それでよかったでしょうか?


―――お兄ちゃんはなりたくてなったわけじゃないというのは違いますね。それはお兄ちゃんを否定することです。「お兄ちゃんは自分を大事にしたくて学校と距離をとったんだよ」、もっとあなたが安心していけば、「あなたも学校へ行かなくてもお母さんは全然かまわないよ」と言えるようになったらいいですね。「お兄ちゃんは自分を大切にしたいと思って、学校を休んでいるのだから、何かを買ってもらいたくて休むという脅し文句はお母さんには通用しないよ」と言えるといいですね。

でも弟さんも堂々とお母さんに駄々をこねて甘えている、そこがとってもいいですね。以前は気を使っているんじゃないかと言われてましたものね。堂々と甘えるのもお母さんの安心がたくさん増えてきたという何よりの証拠ですね。

会の初めに、細川てんてんさんの『ツレがうつになりまして』の文章を読みました。「ダメな自分を誇りに思う。ダメだと世間で思われている自分はうつになってとっても辛いけど、それって自分にとって誇りだと思えるようになった」と書いてあります。だから学校に行ってない子や引きこもっている子もそれが誇れることなんですね。Kさんも目をみはる程変わってこられましたから、きっとそう思えるようになりますよ。


さっきHさんの話を聞いて思い出したんですが、息子も「俺この先やる気が出るのかな」と言ったんです。私はその時は「やる気が出なくてもそのまま生きていけばいいじゃん」と言ったんです。でも息子は「やる気がないままの人生は生きる価値がない」と言ったんです。


―――自分の気持ちを率直に伝えることが出来て、とてもよかったですね。お互いに議論し合わないことね。気持ちだけを伝えるだけでいいんです。「お母さんは君と一緒に暮らしたいよ」と。相手を変えることはできないのですからね。それは鉄則です。

でも相手に自分の気持ちは伝えられます。お母さんは君のことをとってもかわいいと思っているよ、一緒に暮らしたいと伝えられて、どんなにか息子さんは安心したことでしょう。Kさんは以前と比べると息子さんのことをかわいいと思うでしょう。



はい。でもケンカもすごいんですよ。リンガーハットの冷凍の餃子を出したら、それでケンカになりました。いつもジャンク食品が多いと。(笑)






「ダメ」を認められるようになると、もう「ダメ」じゃない

内沢 達




(「お正月落ち込むことばかりで、ここでこんな話をするとひんしゅくをかうと思うんです」と話す、そらさんの話を受けて)

そらさんはすばらしい。心がせまいなんてことでは全然ありません。自分の気持ちにうそをつかないで、「嫌なことは嫌!」と自己主張しています。そうしてこそ、自分だけでなく、自分にとって大事な人をも本当のところ大切にしていけるんだと思います。

2500年も前の中国の老子の言葉に大巧如拙「たいこうはせつなるがごとし」というのがあります。たいへん巧みですぐれていることは、外見は必ずしもそうは見えずに、むしろ反対につたなく至らないように見える。普通だとほめられない、否定的に見られがちなつたないありようこそ、じつはたいへんすばらしいんだということです。ダメそうに見えることが、そう見えるだけでけっしてダメではなく、じつはすばらしいんです。

昨年11月立川談志が亡くなりました。彼は「落語は人間の業の肯定である」と言っていました。落語に登場する人物はだいたいどこか抜けていたり、ダメさ加減いっぱいの人間です。
でも、熊さん八つぁんだけでなく、人間は誰しも多かれ少なかれそうなんだと思います。間違いもいっぱいします。それでいいんじゃないでしょうか。それが重大なものでない限り、許しあっていいんだと思います。間違いや失敗も笑い飛ばしたらいい。いいところだけでなく悪いところも、人間のいっさいがっさいを認めるのが落語だし、その魅力だというわけです。
僕なんかは、世間の常識とは反対で、教育の世界でもこの「人間の業」を肯定してこそ、成果が期待できる、人は成長していけるのではないかと思っています。

今日最初に紹介があった『ツレがうつになりまして』のことですが、ツレが次のように言ってます。

人はどんなときであっても、自分の「生きざま」を誇れるのだとわかった。……要領が悪くて……転んだり失敗を重ねたり、「ばかで、めちゃくちゃで、てんでなつていなくて」も、その人の口から「自分のことを誇りに思っている」と言われたら、みんなその人が「劣っている」とはもう思えないだろう。
低調なときに、自分自身を誇りに思うことはむずかしい。特にうつ病のようなクヨクヨする病気のときはなおさらだ。だけど、それでも、病気の人も周囲の人も、そのことを誇っていいのだと思う。そういう世の中にしたいから、僕は病気になった自分自身を誇りに思う。(細川貂々『その後のツレがうつになりまして』幻冬舎文庫、2009年、457円)

すばらしいですね。自分の「ダメさ」を誇るというか、「誇る」とまでは行かなくても肯定できるようになると、もうそれは「ダメ」じゃないんですね。
自分のどんなありようも肯定する。それは人生をたのしく自分らしく生きていくうえで欠かせないことだと思います。

このツレさんがどうして元気をとりもどしていったのか。
どうやら老子の考え方が大きかったようです。
新聞記事にはちらっとも出てきませんが、見出しの「『治らなくていい』で治る」には老子の「無為」の考え方があらわれています。
「無為」とは読んで字のごとく、為さないということですが、大変な逆説です。「無為にして為さざるは無し」(『老子』第37章)なにも為さないで、なんでも為してしまうんです。
僕の書いた短文の一つに「『しない』と『する』ようになる」があります。これは、ルソーが「なにひとつしないですべてをなしとげる」と言っていたことの僕なりの具体化です。西洋だとルソー、東洋だと老子というのが、最近の僕です。

妻の貂々(てんてん)さんやツレが作為的なことはしない、「無為」でいられたのも、いま現在の自分、自分たちを肯定できたからです。非常に辛く経済的にも大変だったでしょうが、うつ病になってじつは自分たちは恵まれている、幸せだと気づいたんですね。
ルソーは「あるがままで満足している人はきわめて強い人間だ」と言っています。老子は「足ルヲ知ルコトハ富ムナリ」(『老子』第33章)と言っています。
いまの自分に満足する、それこそ本当の豊かさです。いままで気づかなかった自分のなかの隠れた力にも気づくことができます。
幸せはいま現在の自分のなかにあります。なんの変哲もない日常に幸せや楽しみがいっぱいあります。

いま現在のどんな自分も肯定する。今の自分を「そのまま」認める。「そのまま」は「そのまま」だけど、「治らなくていい」と思えるようになったら、治っていったように「そのまま」にとどまってもいないんですね。

ソラさんは自分の気持ちを一番大切にして、とても大事なことを話してくれました。今日は4年ほど前にベストセラーになった加嶋祥造さんの『求めない』(小学館)からの抜粋プリント(8ページ)をまた持ってきています。老子の「ろ」も出てきませんが、老子の思想や考え方をわかりやすく詩にしたものです。みなさん、ご覧になってください。






やさしさはやさしさで・・・母から夫への手紙

じぇり
さん




―――じぇりさんの先月のお話にほんとに感動しました。「病気をして良かったという言葉がどれぐらいほんとかどうか自分では分かりませんけど、いいことがはるかにいっぱいありました。普通に受け止められる自分に、やっぱりここに来るようになって親の会でいろんなことを聞いて、自分の力になっているものがあった」と言われましたね。私は扉の言葉に「じぇりさん、すばらしいよ! 私たちも、じぇりさんからたくさんの元気をもらっています!」と書きました。


一昨年の4月に異常が見つかったんですが、その1ヶ月前の3月の職場検診ではどうもないと言われていたんです。元々病院嫌いだったし、自分が癌だとは思いたくなくて、ずっと病院には行きませんでした。

痛みがきて初めて病院に行ったのが11月で、手術をしたのがちょうど1年前の1月13日でした。生まれて初めての手術でしたが、午前中に手術が始まりお昼には病室に帰ってきて午後2時ごろには点滴をつけたままトイレに行き、痛みもなく何も困ったことはありませんでした。

悪性の癌とは分かっていたんですけど、手術後の病理検査ではっきり分かったのが1月31日でした。ドクターの話では、癌は顔つきが悪く繁殖スピードが速い最悪の状態ということでしたが、あまりことが大きすぎて実感がなかったのかもしれませんけれど、その日は祖母の命日だったんです。

癌になってからなんですけど、結構身内の誕生日だったり、命日だったり、そういう日に何かがあたるというか、だからお祖母ちゃんが守ってくれたんだという話を母としました。

その後、6月末まで抗がん剤治療を受け、11月には放射線治療も終わり、今月5日受診しました。その日も私と夫の結納の記念日でしたので、何か守られているのかもと安心して受診できました。夫は来ませんでしたが、例によって息子が一緒に来ました。(笑)

「最初に説明した治療は終わりました。これからどうしますか」と言われ、私は「ここでずっとお世話になるつもりです」と話し、半年後に受診するということで、一通りの予定は終わりました。


―――あなたは最初不安いっぱいになって、書店で癌の本をいっぱいかかえてね。


いっぱい買いました。
でも、受け止めてもらえる家族がいました。親の会のみなさんもいらした。
そうでなくてひとりだったら、たぶん、こんなふうにはならなかったですよね。なので、ほんとにありがとうございます。


―――髪もちゃんと綺麗に生えてきてね。


何かパンチパーマのおばちゃんみたいだよね、と笑っているんですけどね。(笑)


―――抗がん剤も、辛かったでしょう。


テレビなどで見ていたイメージから、すごくきつくて最悪と感じていたんですが、それに比べたら、確かにきつかったり、食べ物が美味しくないというのはありましたが、治療を受けている時も楽しい時間の方がはるかにいっぱいありました。私は編み物が好きで、職場の人が「編み物は今年のラッキーアイテムらしいですよ」と言ってくれたんです。それで編み物をしていると、子どもの頃祖母や母も編み物をしていたな、とか、私はとても恵まれて育ってきたんだな、といろんなことを思い出して、それが自分の力になっていきました。


―――今日着ているベストの色合いもとってもいいですね。


家にいたら、誰もそんなことを言ってくれないですよ。でも病院ではリップサービスでも「いいね」と言ってくださり、私はそれがすごく嬉しくて、「どうぞ」とプレゼントできてすごくよかったなと思っています。


―――じぇりさんが自分の不安をちゃんと受け止めて、それを大事にしながら不安をなくしてきましたね。あなたの闘病体験はすばらしい財産です。私は感動しました。


私は恵まれていて、ドクターと合わなくて辛い思いをしている方もいらっしゃるんですよ。私の担当の先生は最初お会いしたときから、「もう最悪の結果になったとしても、この先生だったら安心」と思ったんです。私は「恵」という字がついていて、いろんなことで恵まれていると親にもよく言っていたんですけど、この病気になってからも「やっぱり、私ってラッキーだな」と思いました。


―――考え方を変えることで、大変だと思える状況でもたくさんの幸せと思えることがあるんですね。じぇりさんが不安だらけなら、どんな体験も大きな財産としては受け止められなかったと思うんですね。なんでもそうですけどね。

不登校でも、「この子は最高だ」と思えるようになったとき、その体験は大きな財産になりますね。「あ、私ってすごい」って、自分のこといっぱいほめるといいんです



夫が教員を辞めたからここにくるチャンスがあったし、子どもが不登校になったからここに来るチャンスもあったし、いろんなことがうまくいっているんです。母が夫に手紙をよこしたんです。私が妹達と母と外泊した時に、夫のことを話したら、そんなのおかしいと妹達が言ったんです。そのあと、母が12月に夫に手紙を書いて、私に「出していいね」と聞こうとしたんですけど私に繋がらなくて、もう母は投函したんです。

手紙が来たのを私は知っていたんですけど、夫はそのことをなにも言わなかったんです。暫くして夫からメールが来て、母から手紙が来たと言って、「やさしさと思いやりにあふれた手紙だった」と言って(涙)、「開けるのが怖かったのは自分が後ろめたいところがあったからだと思う、いろいろ考えさせられた」と書いてありました。(―――いいメールですね)12月の親の会があった後だったんです。

私が責めたメールを書いたときには「ごめん」と一言しか来なかったのに、前の会報にも「責めても、相手は心を開かない」と書いてあったのを読んで、私のことだと思っていたんです。夫からあらためて思ったことを書いてあるメールが来たときに、「あ、やっぱりそうだな」と思って。

母の手紙には母の思いがずっと綴られていて、責めることなんか一言も書いてないし(涙)、病気のことも心配だった、こんな体に生んでしまって(涙)、と書いてありました。自分でもこんなに強かったと思っていたけど、その間いろんな人に心配がたくさんあったんだなと思って、夫にも申し訳ないなと思い心から優しい気持ちになっていきました


―――親はいつでも無条件の愛を与えてくれますね。そうやって心が通じ合うことが、あなたの心からの願いですものね。ほんとに幸せだと思ったでしょう。お母さんに助けてもらったね。


そうですね。やっぱりいくつになっても母のおかげだなと思いました。だから、責めるから口をつむぐんですよね。


―――「やさしさは、やさしさで」ですね。大発見じゃないですか。じぇりさんとこは面白いのね。夫婦でメールしあうのね。(メル友なんです。うちは)(笑) 素敵ですね。そういうふうに気持ちが通い合うメールをすると、ほんとに幸せだと思うのね。なんて素敵なんだろう。いいお話しをありがとうございました。






「お父さん、私ね、いっぱい幸せだったんだよ」 

長谷川登喜子
さん



―――23年前に長谷川さんの呼びかけで親の会を3家族ではじめました。3人の子ども達もすっかり大きくなって、かつて不登校だったトオル君は今32歳ですね。


わが子の年も忘れるこの頃です。(笑)

息子は大阪に住んでいて、こちらにはどうだこうだと連絡は来ないけれど、自分なりに自分の生活をしています。何かあったら姉弟で話し合いをしているみたいで、「こういうことがあったんだけどお母さんが心配するから言わなかったんだよ」ということも、後で耳に入ってきたりします。弟が病気をしたときはお姉ちゃんが行って看病したり、私は方向音痴だし体も弱いから、姉弟でやってくれています。

もう子ども達におんぶに抱っこです。今年のお正月は、娘と長男の家族でお正月を過ごして、次男のトオルは帰ってきませんでした。


―――あなたはいいことを言ったんですよね。「3人の子どもたちは私の仏様です」と。「子ども達に命をいただいて感謝している」というお話でしたね。


友達が亡くなったときに、女の子の孫が生まれて、父が亡くなって1週間後に男の子の孫が生まれて、私っていろんなことに守られているんだなと思って、病気の時も命が救われて、常に守られているなと感じています。


―――15周年の記念誌を玄関に置いていたら、今は亡きあなたのお父さんが読まれて、「こんなに辛かったんだな」と言って泣かれたというお話がありましたね。


どなただったか親には黙っていると言っていましたけれど、父に「おまえは難儀したんだな」と言われたときに、こんなふうに言葉をかけられることがあるんだなあって思いました。

私も見栄っ張りなのか、人から何か言われると「知らないからよ、私たち楽しくやっているよ」と言うんだけど、親から「おまえ何してんだ」と言われたら、自分がどうかなってしまう。私を40年、50年見てきた親から「何やってるんだ」と言われると、自分をとても否定された気持ちになるというのが怖くて親に言えなかったんです。

だけど親の会でアドバイスされて、自信もいっぱいついて、みんなの話しを聞いてみんな一緒だな、ほんとに幸せだな、と思ってきました。

この23年間があって今があって、だから、3月で親の会をやめようかなという話を聞いたときに、自分達は支えられてきたんだけど、これが解散したらどうなるんだろうと思い、でも続けるというのを聞いて、嬉しいと思いました。

登校拒否というのは23年してきたけど、学校も世間も変わらないのね。だけど自分達は学んできたから、とても変わって幸せな時を過ごしているよなあ、これめっけもんだなあって思いがあります。

父が「おまえ、難儀したんだね。おまえは何も言わないからなあ」と言った時に、私は父に「お父さん、おかげで私はたくさん友達ができて、話を出来るところがあって、私はとっても幸せだったんだよ」と言いました。

その2年後父が亡くなったときに「私は幸せだったんだよ」と父に言えてよかったなあと思いました(涙)。

私は父が亡くなっても、あまり泣かなかったんだけど、親っていつも包んでくれているんだなあ、「おまえ、難儀したんだね」と言われたとき、「難儀していないよ」と言えたこの関係は、すごく幸せだなと思います。

最初の頃は、肩に力が入って誰からも何も言われないぞという思いでしたけど、だけど途中からは、肩に力入れることないじゃん、自分達の仲間がいっぱいいるじゃんって楽になりました。私ね、ほんとに幸せ!


―――「こんなに幸せなんだよ」と言える人生って最高ですね。
1年初めの例会、締めもいい話でしたね。今回も本当に感動でした。
皆さん、ありがとうございました。今年も皆さん、すてきに生きていきましょう。






このページの一番上に戻る ↑


体験談(親の会ニュース)目次へ→


2012年1月発行ニュースはこちら→    TOPページへ→    2011年12月発行ニュースはこちら→



最終更新: 2012.2.24
Copyright (C) 2002-2012 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)